2020年4月3日(金)
『死のとげは罪であり、罪の力は律法です。』コリント人への手紙第一15章56節
あなたはモーセの律法をもつ可能性があるのと同じくらい、クリスチャンの律法をもつ可能性がある。
人々がユダヤ教に束縛されていたのと同じくらい、キリスト教に束縛される可能性がある。
キリスト教はモーセの律法がそうだったのと同じくらい、押し付けられた制度にされる可能性がある。
今日の多くのクリスチャンが、クリスチャン生活の律法的概念の「汝……すべし」と「汝……するなかれ」の恐れの下に生きている。
あなたは聖書を自分の生活に対する神の規範として受け取り、それを達成しようとし、それでもなお常に失敗の意識に苦しめられる可能性がある。
それは神の規範であり、実際の生活に言及していない部分はまったくない極めて網羅的なものだが、それに従って生きようと努力する者は結局、失望に終わるだけなのだ。
いや、これは単なる『書物』の問題ではなく、『人』の・・・その規範に従って生き、どんなささいな要求をもすべて完璧に果たし、完全な成功のもとに、神にこの上ない満足を与えた人の問題なのである。
その方はご自分の死によって、私たちを律法の束縛から救い出してくださった。
その同じお方が、今やご自分の聖霊によって私たちの内に生き、外からの拘束的な命令ではなく、内からの生ける力を基盤として、その完全な神のみこころを成就しようと求めておられるのだ。
私たちは自分たちの心の中に書かれた律法を持っているのである。
「キリストの内に在る」ということは人生の問題であって、律法主義の問題ではない。
T・オースティン=スパークス
一部のよきクリスチャンは悲しむべき思い違いをして、律法を、キリストを信じる者にとっての人生の規則だとして押しつけてくる。
そのことに彼らはまったく悪意はないのだが(なぜなら彼らは義であろうと頑張っているからだ)、その主義はすべて誤りである。
律法は必然的に、いのちの法則ではなく、生まれながら罪の性質をもっている者に対する死の法則なのだ。
それは救いの力であるどころか、糾弾することしかできない。
聖めの手段になるどころか、実のところ、パウロに言わせれば「罪の力」なのである。
ウィリアム・ケリー
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