2020年2月8日(土)の手紙

2020年2月8日(土)


『たとえ私が誇りたいと思ったとしても、愚か者とはならないでしょう。本当のことを語るからです。しかし、その啓示があまりにもすばらしいために、私について見ること、私から聞くこと以上に、だれかが私を過大に評価するといけないので、私は誇ることを控えましょう。その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』コリント人への手紙第二12章6節~10節


勝利の道を歩みたい者は、同様に自分の経験を誇ったり、自慢したりしないように注意しなければなりません。
人はしばしば、自分の『経験を語る』ことによってさえ、悪の誘惑を受け入れてしまうかもしれないからです。

使徒パウロは、自分の内なる人生のこの面を覆い隠す必要を感じていました。
「私は誇ることを控えましょう」と彼は言いました。
「私について見ること、私から聞くこと以上に、だれかが私を過大に評価しないようにするといけない」からです。

パウロは、人がいかに「人間を誇って」、人間をすばらしいと思いたい傾向があるかを知っていました。
リカオニアの人々は、「足の不自由な人」がパウロとバルナバに「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言われたことで癒やされた奇跡を見たときに、二人に対してそう思ったのです。

「私たちも皆さんと同じ人間です」と二人は叫びました。
神おひとりだけにささげられるべき礼拝を人々が自分たちにささげようとするのを、恐れを抱いて止めようとしたのです。

私たちはまた、パウロの人生において「その啓示のすばらしさのため高慢にならないように」主が用いられた手段を見ることができます。
というのも、パウロは「肉体に一つのとげ」、彼を「打つためのサタンの使い」を与えられたからです。

主のご計画の目的は達成されました。
パウロは打ち砕かれ、へりくだってこう言ったからです。

「私は……弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。
というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです」。

霊的な人生のこの段階において、私たちに必要なのは、注意深く神とともに歩むことであり、十字架の陰に深く身をひそめることです。
すばらしい経験をすることをむやみに求めるのではなく、むしろイエスの死とこれまでにないほど深く一致することなのです。

それは主イエスのいのちが周りのすべての人に明らかにされるためです。

また、神にとって私たちの信仰は、黄金よりもかけがえのないものであることを理解し、目で見るよりも信仰によって歩むことに満足しようではありませんか。

同様に「ビジョンと啓示」は、たましい自身の慰めや喜びのために与えられるのではなく、神のみこころや困窮する危機的で特別なときに、確固たる目的のために与えられていることを思い起こしましょう。

使徒パウロも、リステラで「石打ちに」されたり、「マケドニアに渡る」ように「神の召し」を受けたり、「アテネに残る」ための明確な導きが必要だったときにそうでした。

でも一般には、クリスチャンが成長していくにっれて、「心の目」「新しく造られた」「内なる人」が備えている霊的な視力は、もっともっと光に満たされていくはずです。
それゆえ、霊的な視力は鋭くなって、霊的な世界のものを見ることができるようになります。

それは「啓示」というよりもむしろ『見る』という単純な力、パウロが『識別力』と呼んでいるクリスチャンの能力なのです。

経験のすべての段階において、聖霊の領域を安全に歩こうとする人に対して、聖霊に「キリストの死による力」を働かせてくださるよう直接訴えることで、すべてのビジョンと啓示を吟味させましょう。

その力は、「光の御使いに変装」した「サタン」から来るものをすべて追い散らしてくれます。
そしていかなる偽者もすみやかに消え去り、神を信じる者はすべての「悪魔の策略」に迫って勝利を得るのです。

ジェシー・ペン=ルイス


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