2020年2月2日(日)の手紙

2020年2月2日(日)


『ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。』ピリピ人への手紙3章13節~14節


過去に生きることは決して賢明ではない。

確かに、私たちの過去の用い方として、役立つもの、恵みをもたらすものも幾らかはある。
謙虚さと信仰を保つために、過去において罪の中をさまよっていた状況を忘れてはいけないし、未来で待っている新たな窮乏や試練に対しても確信をもてるように、過去の神のあわれみを覚えているべきだ。

ふたたび夜が訪れるときに私たちの空に星が輝くために、過去の慰めを心に刻みつけておくべきなのだ。

しかし、このように思い出の正しい用い方がある一方で、私たちは過去に生きることに対して警戒する必要がある。
人生のインスピレーションを、記憶からではなく、希望から… 過ぎ去ったものではなくまだ来ていないものから引き出さなければならない。

「うしろのものを忘れ、前にあるものに向かって」進んでいかなければならないのである。

J・R・ミラー


私たちは自分の人生の過去の失敗を覚えていることによって、ある程度はうまくやっていける。

謙遜になったり、用心深くなったりするだろうし、これでもかこれでもかと強く迫ってくる誘惑に身をさらさずにすむかもしれない。
もっと注意深く自分を見守るようになり、神に完全にゆだねるようになるかもしれない。

しかし、あたかも自分の過去の罪が今でも神の目の前に存在し、聖く高潔な奉仕を行う資格はない、とくよくよ考えこんではならない。

もしもペテロがあの聖霊降臨の日に、自分がイエスを否定してしまった場面のことをいつまでもくよくよ考えこんで、すべてのことが赦され忘れられたことを信じようとしなかったら、彼はいったいどうしていただろうか。

もしもパウロが、教会を建て上げ、使徒書簡をしたため大陸を横断するように召されたときに、聖徒たちへの迫害に加担した記憶が心を暗く覆うままにさせていたら、彼はどんな影響を受けていただろうか。

ひとたび罪を告自すれば、私たちの罪は直ちに永遠に取り除かれる。
神は二度とそのことに言及なさらない。
私たちの奉仕に障壁を築く必要はなくなる。

人の手の届く範囲にあるもっとも親しい交流を熱望し、楽しむことが罪によって妨げられることはないはずだ。
自分の人生における過去の罪や失敗を永違に嘆いていつまでも気にやんだりせずに、それらを忘れることだ。

F・B・マイアー


過去の経験に頼ることは、神の恵みを阻む障壁を実際に作ることだ。

E・P・C


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