2020年12月17日(木)の手紙

2020年12月17日(木)


『私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。』ヨハネの手紙第一2章1節


主のとりなしは、私たちが負わされているような罪を主がとりなしてくださるという意味では決してない。
このことを認識するのは大切なことだ。

主は十字架の上で死なれることで、私たちの罪を一度であがなってくださった。
これは、繰り返されることは絶対にありえない。

そのただ一度の犠牲は、私たちのすべての罪を覆っており、主を信じる者が罪を負わされることは絶対にない。

「幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人」。
「わたしは、もはや 彼らの罪と不法を思い起こさない」と書かれているとおりである。

私たちは主の義によって罪を赦され、「義と認められ」、キリストの内に在る。
それだからキリストの擁護者は、あたかも罪を告発されたかのように自分たちが神に罪の償いをしたり、赦しを確保したりすることには何ら関与できない。

信仰をもったあとで犯すかもしれない罪ですら、キリストの死によってすべて償われ、私たちに負わされることはない。

とはいえ、罪は神との親交を妨げることになり、我々のたましいにとって測り知れない損失となる。
私たちが神ご自身と親交をもつこと、私たちが喜びに満たされることは、神にとっても大きな喜びである。

しかし、これには私たちの内に実際の聖さがあることが絶対に必要である。
「神は光であり、神には闇が全くない」からだ。
私たちは罪の内を歩みつづけながら、神との親交をもつことはできない。

それだから、もし私たちが罪を犯していたら、私たちが失ってしまった親交を再び享受するために修復させられる必要がある。

このために、私たちを「とりなしてくださる方」イエスは、神の義とご自身の「宥めのささげ物」によって私たちが神との関係にあるという事実に基づいて、とりなしてくださっているのである。

A・H・ルール


a:35 t:1 y:0