2020年10月7日(水)
『私は二心のある人たちを憎み あなたのみおしえを愛します。』詩篇119篇113節
詩篇の作者ダビデは、自らの体験から「私は二心のある人たちを憎みます」と言うことができた。
何の不思議もない。
それは実に憎むべきものであり、さばかれ、糾弾され、排除されるべきものだからだ。
ある人が悪しき思いというテーマについて、こう語っている。
「鳥たちが私の上を飛ぶのを防ぐことはできない。けれど、鳥が舞い降りて来て私に止まるのを防ぐことはできる。
それと同じように、悪しき思いが心に浮かぶのを防ぐことはできないが、心の中に住みつくのを拒むことはできる」
だがどうやったら、私たちは自分の思いをコントロールできるのだろうか。
それはできない。
それは自分の罪を拭い去ったり、あるいは世界を創造したりすることより難しい。
それでは何をすべきなのか。
私たちはキリストに目を向けなければならない。
これは自制の真の奥義である。
主は悪しき思いが宿ることだけでなく、心に浮かぶことからも守ってくださる。
自分の力では、どちらかひとつでさえも防ぐことはできない。
主は両方を防ぐことがおできになるのだ。
悪しき侵入者が入りこまないようにするだけでなく、ドアを叩くことすらも防いでくださる。
主の聖なるいのちが私たちのいのちの源泉であるとき、霊的な思いや感情の流れが深く速いとき、つまり心の熱意がキリストというお方に強く占められているとき、空虚な思いに悩まされることはない。
悪しき思いやその邪悪で恐ろしい結果が洪水のように襲いかかるのは、霊的な怠惰が私たちの心に徐々に広がりつつあるときだけである。
私たちの唯一の源泉は、まっすぐにイエスに目を向けることなのだ。
私たちが悪しき思いの集団と闘うことは、集結した地獄の全軍勢と闘おうとするに等しい。
「われらの避け所」はキリストの内にある。
主は私たちを、「ご自分の聖さにあずからせようとして」くださっている。
私たちは主を通してどんなことでもできるのだ。
洪水のように襲いかかる悪しき思いを抑えるには、ただイエスの御名を呼ぶだけでいい。
主は必ず、直ちに完全な救いを与えてくださるからだ。
しかしそれよりもっとすばらしい方法は、よき思いに没頭する力によって、悪しき思いの誘惑から守られることである。
思考の流れがしっかり上向きになって深く十分に形成され、湾曲やくぼみが皆無であれば、想像力と感情の流れはたましいの深い泉からあふれ出て、その水路をごく自然に前に向かって流れ進んでいくだろう。
繰り返しになるが、これがもっとすばらしい方法であることは疑いがない。
私たちはそれを自分自身の経験によって証明しようではないか。
「最後に、兄弟たち。
すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。
あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。
そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます」。
この聖句に挙げられたすべてのことを生きて体現されたキリストに心が完全に占められるとき、私たちは悪しき思いにかき乱されることなく、深い平安を享受できる。
これこそが、真の自制である。
C・H・マッキントッシュ
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