2019年7月20日(土)の手紙

2019年7月20日(土)


『そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」 訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見拾てになったのですか」という意味である。』マルコの福音書15章34節


私たちの周囲には、精神的に苦しむことが使命であると、主によって命じられている人が存在します。
その人が何か間違ったことをしたからではなく、他の人に役立ち、益となるためです。

何年か前、私は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という聖句に基づいて説教したことがあります。
これは私自身の叫びでもありました。

当時の私は心に苦悶を感じ、神から見捨てられたのではないかという恐ろしい思いに襲われていたからです。
どうしてそのような恐ろしい暗闇に襲われたのか理解できませんでした。
私の内に何か罪が残っているのであれば、その罪を清めたいと思ったのです。
しかし、私は容認できるどんな罪も自分の内に見いだすことができませんでした。

私は牧師室に戻ったとき、やっと自分の個人的な苦悩の秘密に気づきました。
ふと見渡すと、暗闇を恐れている一人の老人がそこに座っていました。
彼は、「自分以上に暗闇の恐怖を味わった者はいないのではないか。
しかし、希望は残されていると信じています」と言いました。

私は彼に座ってくださいと言い、話し合いの時をもちました。
主を深く信じることによって、暗闇の縁から明るく平安で健康的な場所へと彼を案内したい、と私は願ったからです。

もし私自身が精神的な泥沼の中にいなかったとすれば、彼を助けることはできなかったでしょう。
そのとき、なぜ私が見捨てられた者のように感じたのかがわかったのです。

この人を理解できる術を教えてもらえる、と思われるその場所に、また暗い牢獄で喜んで彼とともに座りたい、と思われるその場所に、そして、助けるために手を貸すことのできる、その場所に主はすでに私を導いておられたのです。

それ以来、私は礼拝において主の御前に出るときには、「疑っている人たち、意気消沈している人たちのために、私を用いてください。
たとえ慰め、平安、喜びをもっていない貧しい、疲れた聖徒たちのために、私が大いに役に立つことができるとしても、私はそれらの尉慰め、平安、あるいは喜びを安易に手に入れるつもりはありません。

苦難の中にいる人に同情することによって、あなたの意向にしっかりと応えることのできる場所に私を導いてください。
彼らをただ天国に導き、あなたの恵みの栄光を賛美できるようにと導くことを望んでいるだけです。

彼らの状況に寄り添うことができるようになるため、私には喜びだけでなく、苦しみをも与えてください」と主に祈ることにしています。

そのためにあなたは、神を深く信じ、今受けている試練から大いなる報いをいただけることを確信しなければなりません。

God Bless You!!


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