2019年10月29日(火)の手紙

2019年10月29日(火)


『ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。』ヘブル人への手紙4章16節


真実の祈りは単なる精神の修練でも、音声による演技でもありません。
それよりはるかに深い内容をもっています。
それは天と地の創造者との霊的な商取引と言っていいほどのものです。
その照準と目標は神ご自身の奥深いところに到達することです。

ですから、ここでは力強い聖霊の働きが必要なのです。
もし祈りが単に唇だけの動きであれば、私たちは祈るためにただ鼻で息をするだけのことでしかありません。
神の霊の助けなしには祈りが真実の祈りとなることはありません。
神の子、主イエスの助けなしに力強い祈りをささげることはできないのです。

親しみやすい態度をもって人と接することは良いことであり、好ましいことです。
しかし、その場合相手に対する敬意を忘れてはなりません。

私たちは大胆になれるかもしれません。
しかし、差し出がましくあってはなりません。
何をすべきかについて神に指図しようとして神に祈ることがあってはなりません。

一時たりとも、神の行動の進路を命令しようなどと考えてはなりません。
私たちにはただ神に対して「そのとおりです」と言うことが許されているだけなのです。

私たちは無知であり、間違うことも多いのです。
私たちはまだ卑しい肉体のままであり、肉的動機によって動かされていることが非常に多いと言わなければなりません。

ですから「私の願うようにではなく、あなたのみこころを行ってください」と、常に付け加えることを忘れてはならないのです。

私たちは神が貧しい者に対してご自身の恩恵を分け与えてくださるそのところに、ただ祈るだけで到達することはできません。
また、たとえそれがあまりに価値高く、自分が受けるに値しないと認めることができるとしても、屑鉄を受け取るかのようにあわれみの家の裏口にまわる必要はありません。

それどころか、私たちは祈るとき、神の王座の前の側近たちと一緒に立つことを許されているのです。
しかも、偉大なる王の謁見室である華麗な広間に招き入れられています。
このように、私たちは想像以上に恵まれた立場に置かれているのです。

私たちは不十分な願い、狭量な信仰をもって主の御前に赴いてよいのでしょうか。
そうであってはなりません。

というのは、もし王が臣下に対してわずかな報賞しか贈らないとすれば、それは王としてふさわしくない行為です。
しかし、神は私たちに多くの黄金を豊かに分け与えてくださる方です。
恵みの御座の前に出たときにはいつもこのように感じたはずです!

そのとき私たちは「私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に」向かって祈っているのです。
このことを忘れないでください。

God Bless You!!


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