2018年8月9日(木)
『よみと滅びの淵とは主の前にある。人の子らの心はなおさらのこと。』箴言15章11節
奇妙なことに聖書は、神の目にすべてが明らかであるということを証明しません。
おそらく明らかだろうとも、その可能性に注目せよとも言いません。
そのような洞察を持てと勧めることさえしません。
聖書は単純に、事実を提示するのみです。
私たちは、それが自分に当てはまるかどうか、あるいは信じて受け入れる気があるか、尋ねられもしません。
ただ事実がすべてを明らかにするのです。
滅びの淵、よみ、そして私たちの心、すべては、開かれた本のように明白だからです。
「人の子らの心」。
それは行為ではありません。
思考、ひそかな願望、憧れ、幻想、憎しみ、愛…、それらが神の前に開かれているというのです。
さて、きょうのみことばの強調点は、「人の子らの心はなおさらのこと」という表現にあります。
私たちならば、「人の子らの心もまた」と言うところです。
「なおさらのこと」とは、何を言おうとするのでしょうか。
よみと滅びの淵は、私たちがしばしば企てるのとは違って、神の目から隠れようとはしません。
しかし私たちは、アダムが茂みに身を隠して、神を避けようとしたとき以来、連綿として同じ企てを続けているのです。
私たちは、どこにいても、いつも主の目の前だということを確かめないし、認めようともしません。
けれども、きょうのみことばは、この企てを打ち壊します。
神がよみをさえもご覧になるのであれば、なおさらのこと私たちの隠蔽作戦を、笑って見ていらっしゃるにちがいないのです。
主よ。
御目の前に生きることを、私たちに教えてください。アーメン
God Bless You!!
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