2018年8月18日(土)
『王の激しい怒りは若い獅子がうなるよう。しかし、その恵みは草の上に置く露のよう。』箴言19章12節
朝露は、暗夜の末にくだります。
イエスによる神の恵みの露も、夜を経験した者だけが知るのです。
ソロモン時代のオリエント地方では、夜は不気味そのものでした。
「夜には、あらゆる森の獣が動きます」と詩篇にも歌われているとおりです。
ライオンの遠吠えが空気を震わすと、人間たちは縮み上がって小屋に逃げ込むのでした。
「王の激しい怒り」。
ソロモンは、王の王、すなわち聖なる神について語っています。
彼は神の怒りについて、明確な印象を抱いていました。
神殿の献堂にあたり、全国民を前に、彼は力強い祈りをささげました。
その中で、恐れに満ちた叫びとも取れることばを口にするのです。
「私たちの神、主は…私たちを見放さず、私たちを見捨てられませんように」。
つまり、神は私たちを見捨てることもできるのです。
すると私たちは暗闇のもろもろの力に売り渡され、そして本当に「見捨てられた」民となるのです。
自分はこんなに立派なのだから、神は断じてお見捨てにはならない、と言えますか。
きょう、神がそうなさったならば、私たちは永遠に捨てられるのです。
いったいだれが、神のさばきを免れ得ると言えるでしょうか。
神はきょうにでも私たちを見捨てることができるのです。
このことをほんとうに悟るとき、人は心の真の闇夜を迎えます。
そして、私たち自身を聖なる神の前に立たせるこの夜なしには、だれも朝を経験することはありません。
が、私たちの前にイエスの十字架を置くならば、朝は来るのです。
この十字架のうちに、罪人への神の恵みを見るからです。
そのとき、心は歌い出します。
「王の恵みは草の上に置く露のよう」。
主よ。
私たちをあなたの恵みの御国に入らせてください。アーメン
God Bless You!!
a:140 t:2 y:0