2018年5月7日(月)の手紙

2018年5月7日(月)


『神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。』使徒行伝2章32節


あるとき、私がこのみことばから説教をしたところ、ひとりの人が大変に怒って言ってきました。
「先生はいつも神の偉大なみわざを説教されます。
確かにそれは千マルク紙幣のように結構なことです。
しかし、私には毎日の小銭が必要です。
こまごまとした悩みや心配や、個人の問題に対して、忠告と助けが欲しいのです。
はっきり言えば、神の大いなるみわざではなく、小さな助け、アドバイスが欲しいのです」。

私は答えました。
「それは、馬なしに鞍だけで遠乗りにでかけるようなものです。
生活さえ整えば、日々の悩みや、戦い、問題も片付くと思うでしょう。
神の大いなるみわざなどは無関係だと言うのですね。

しかし、イエスが十字架でなだめの供え物として死なれたからこそ、私は神の子どもとされるのです。
こうして神の子どもであって初めて、私は毎日の生活を主に相談できるのです。

しかも神はイエスを死人の中からよみがえらせてくださった。
これは確かに千マルク紙幣のように大きなことです。
が、それはまた、この真に生ける救い主、贖い主を、自分の日々の生活の味方にできるということなのです。

おわかりですか。
贖われた生涯と贖われない生涯、このふたつしか存在しないのです。
イエスにあって、その交わりの中にいるならば、最もささいなことまでもが、贖いの力のもとにあるのです。

人は(あなたのことばを借りれば)、最初に大きなお札を手に入れてこそ、小銭も使えるでしょう。
大金を小銭にして、毎日出していけるからです」。

主よ。
あなたの救いが私たちにとってこよなきものとなりますよう。
またその救いが、大きいことにも小さいことにもあてはまることを悟らせてください。アーメン

God Bless You!!


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