2018年5月19日(土)
『私はあなたの救いを待ち望んでいます。主よ。』詩篇119篇166節
詩篇119篇はいったいどんな討論会なのでしょうか。
普通の場合ならば、発言者が少し厳しい意見を述べると、すかさず野次が飛びます。
すると彼はことばに詰まってあわてます。
民主政治によく見られる光景です。
が、きょうの詩篇が記す出来事はまったく違ったものです。
ここでは詩人が自分の弁論のただ中で、自分に対して野次を飛ばすのです。
もう少しよく観察してみましょう。
119篇の冒頭から、彼は神のおきてをたたえてきました。
彼は明らかに「良いこと」を進んでする人です。
良いことをするのはいやだ、という人間がいるわけはありません。
が、では何が「良いこと」かを、だれが知り得るのか。
ここで混乱が生まれます。
例えば殺人は一般に悪とされるのに、ドイツでは殺人を「これは私の義務である」と言えた一時期があったのです。
あるいは姦淫ももちろん悪ですが、ある娘さんは私に言いました。
「愛は神の性質でしょう。
それならば愛することは良いことでしょう」。
また、嘘は良いことではありません。
が、死んで行く人や子どもに対して、良かれと思って本当のことを言わない、という場合もあるかもしれません。
こうなると大混乱です。
さて詩人は神のおきてを見いだしました。
良し悪しをはっきりと言える方を知っているこの詩人は幸いです。
しかもその方とは、善悪の決定権を持つ神です。
そこで詩人は「私は、金よりも、純金よりも、あなたの仰せを愛します」と高らかに叫ぶのです。
ところが突然、彼は「自分も、神のおきての違反者ではないか」と気づきます。
そこで彼は野次を飛ばします。
「私はあなたの救いを待ち望みます。主よ」と。
彼は霊において、十字架にかかられた神の御子、すなわち罪人たちを神の子どもとしてくださる方を見たのです。
主よ。
明白なおきてを、また、それにもまさる主の大いなる恵みを感謝いたします。アーメン
God Bless You!!
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