2018年5月13日(日)の手紙

2018年5月13日(日)


『主は仰せられる。「…わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」』詩篇12篇5節


「この方が私たちを救われる」。
聖書の中で、私たちの主はそのように呼ばれます。
なんとすばらしい定義でしょう。

が、たちまち多くの抗議の声があがります。
「私にはなんの助けもなかった」。

ではいったい、主はだれを助けてくださるのですか。
「その救いを求める者」だと、きょうのみことばは言います。

私たちの知るべき要点は、「主は強制的ではない。
主を除外して生きようとすれば、それもできる。
が、やがて結果を悟る日が来る」ということです。

放蕩息子は豚の世話を続けることもできたでしょう。
が、彼はそうしたくはなかったのです。
父のもとへ急ぎ、「私は罪を犯しました」と言ったその時に、彼は救われました。

聖書は収税人ザアカイのことを記しています。
彼は不正の金袋にしがみつくこともできました。
が、もう耐えられなかったのです。
良心が彼を押しつぶしました。
それで彼はイエスのもとに走り寄り、こうして彼にも「救いが… 来ました」。

マグダラのマリヤ。
主は彼女から七つの悪霊を追い出してくださいました。
彼女は悪霊のとりこのままでいることもできました。
が、それを望まなかったので、彼女の悲惨をイエスのもとへと運びました。
主は彼女を自由にしてくださいました。

「主はまだ私を助けてくださらない」。
私たちも心の中でそう考えるひとりであるかもしれません。

そうであるなら、主は逆に尋ねなさいます。
「では、あなたはわたしに一度でも願ったことがありますか。
わたしの助けを待ち望んだことがありますか」と。

主よ。
お赦しください。
私は自分ひとりでやっていこうとしていました。アーメン

God Bless You!!


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