2018年3月28日(水)の手紙

2018年3月28日(水)


『信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。』ローマ人への手紙5章1節


なんという晴れやかな響きでしょうか。
教会の鐘の音が町中のすべての不安の上に鳴りわたるのと同じように、このみことばは、不安に満ちた私たちの心に響きます。

聖書をほかにして、これほどに慰めと励ましに満ちた宣言はあるでしょうか。
が、注目すべきことに、このみことばはまた人々… 宗教的な人々を含めて… の考えと相反するものです。

神のことが、ここで語られています。
しかも非常な確かさをもって。

そうです。
神は大問題ではありませんか。
この方がどのようなお方であるのか、どこにおられるのかを、そもそも人間は知っているでしょうか。

神との平和が、ここで語られています。
では私たちは神と戦争状態にあるのですか。
神は私たちを威嚇する敵対勢力ですか。
人はそんなふうに考えたこともありません。

さて、「私たちは持っている」と語られます。
これを書いたパウロは、確固たる所有を、すなわち自分の救いの確信を、手にしていたというのです。

そんなことがあり得るでしょうか。
キリスト教もひとつの探求であり、ひとつのの推測ではないでしょうか。
たかだか議論のテーマのひとつにすぎないのではないでしょうか。

使徒がこのみことばを書いた時、霊的な意味で彼はイエスの十字架のもとに立っていました。
そして、彼はそこでひとつの発見をしたのです。

私たちもまた同じ発見をすることができます。
パウロは、イエスを間近に見て知りました。
「神は生ける方」であることを。

また、十字架に死なれた方を見るときに、罪に対する神の怒りとさばきの厳粛さを知りました。

そして彼は、十字架に見いだしたのです。
神のひとり子を死なせるほどの厳粛さを。

それと同時にパウロは、十字架において次のことを経験しました。
「ここに怒りはなだめられた。
ここに罪責は担い取られた。
人はここに、信仰によって、大いなる神との平和を見いだす」。

主よ、私たちにも、あなたの十字架のもとで、確信と平安を見いださせてください。アーメン

God Bless You!!


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