2018年10月20日(土)
『目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。』使徒行伝16章27節
今日、「短絡的行動」ということばがあります。
もったいぶり屋の看守にそれが起こりました。
ある夜、彼は「厳重に番をするように」との命令つきでパウロとシラスを引き受け、二人を一番奥の牢に入れ、足かせを掛けたりして、あれこれと万全を期しました。
ところが真夜中に地震が起こります。
それは神が直接起こされたのです。
町には何の影響も及ばず、ただ牢の扉だけが吹き飛ばされました。
看守は扉が開いているのを見て、「ああ、囚人たちは逃げてしまった。
俺はクビだ。
悪くすると、本当に縛り首だ」と考えます。
頭のヒューズが焼け溶けて、彼はたちまち「短絡的行動」に走ろうとしました。
このような短絡を、私たちは知りすぎるほどに知っています。
若者が親の家を飛び出したり、穏やかな人が突然爆発したり…。
もう充分です。
むしろ「どうすれば、この不幸から救われるだろうか」と問うべきです。
詩篇73篇の作者は、神なき人々がいかに屈託のない人生を楽しみ、神の子どもたちが逆にいかに悩むかを、発見したと語っています。
「いったい、私の信仰はたわごとではないのか。
神は不公正ではないか。
神は何とも思われないのか」。
こうして彼の確信は崩れ落ちる寸前でした。
が、この詩人は、「私は、神の聖所に入り、ついに、彼らの最後を悟った」と言います。
彼は神の前に静まりました。
神と親しく語りました。
その時に、心は静まり、頭ははっきりしました。
彼は救われたのです。
主よ。
危機においても、あなたへの道を見いださせてください。アーメン
God Bless You!!
a:144 t:1 y:0