2018年1月16日(火)の手紙

2018年1月16日(火)


『それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って…』ルカによる福音書2章51節


なんという下り道でしょうか。
たった今イエスは、神こそがご自分の父だと、権威をもって明かされたばかりなのに、両親とともにナザレに向かわれます。

ほかでもないナザレ。
「ナザレから何の良いものが出るだろう」と、諺にまでなって、さげすまれた町ナザレです。

私たちはここに、イエスがご自分の道を下って行かれるのを見ます。
ナザレはささやかな宿場町でした。
しかし、そこへの道行きは、永遠の昔に始まって、ずっと続いていたのです。

イエスについて言われるとおり、「この方は、初めに神とともにおられた」のであって、その方が人となられたのです。
何という下り道でしょうか。

聖書は言います。
「(キリストは)ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました」。

主の地上の全生涯は常に下り道でした。
民のおもだった者たちは、彼について言いました。
「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする」と。

しもベのように仕える者となって、弟子たちの足を洗われたとき、イエスはなんとへりくだられたことでしょうか。
そしてついには盗賊を両脇に従えて、十字架で屈辱の死を遂げられます。
実にここまで低く下られたのです。

今日、だれかがさえぎって、「それが現代の問題とどんな関係があるのか」と言うこともできるでしょう。
しかし、いま私の前に、ひとりの若者の手紙があります。
彼は、自分の罪に縛られて出口が見いだせない、と訴えています。

このような人のために、イエスは下って来られました。
今や私たちには神からの救い主がおられます。
この方は一番低い罪人の立場にまで下り、罪人に連帯し、罪人の咎を十字架でその身に負い、罪人をサタンから取り戻してくださるのです。

主イエスよ。
私たちの痛む良心は、私たちを下なる者だと告白します。
あなたが来られたことを感謝いたします。アーメン

God Bless You!!


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