2013年4月7日(日)

2013年4月7日(日)


『そうして彼らは自分たちのうちから異なる神々を取り除いて、主に仕えた。それで主の心はイスラエルの悩みを見るに忍びなくなった』士師記10章16節


旧約聖書の士師記は、ある意味で気の滅入る箇所かも知れない。

神の民が、神様に反抗して罰せられ、悔い改めて赦され、また反抗するという繰返しだ。

神様が介入して救ってくださるや、また同じ事が始まる。
民が神様を呼び求めるのは、いつも困った時だ。

人々が大声で神様に助けを求めると、神様が救ってくださったという出来事が、士師記には6回も登場する。
イスラエルの民が苦しんでいる時、他でもない、神ご自身も苦しんでおられるのだ。

主の心は、イスラエルの悩みを見るに忍びなくなったなんて、信じられるだろうか。
見捨てられてもおかしくない、イスラエルの民を見てだ。
そして、見捨てられてもおかしくない私達を見てだ。

神様に反抗した結果、私達が受ける苦しみは悲惨なものだ。
だけど、それと同時に、主を苦しめている事も忘れてはいけない。
預言者であるイザヤは、彼らが苦しむ時には、いつも主も苦しんでいると語っている。

イエス様が、私達のために十字架で死なれた時、神様の苦しみは頂点に達した事だろう。
天の父なる神様と御子イエス・キリストの親密な関係が、私達の罪によって断たれた瞬間だ。

罪は、人にも神にも苦しみをもたらすものだ。

だけど、その苦しみを一身に負われたイエス様を仰ぎ見よう。
父なる神に見捨てられたイエス様を見よう。
私達の罪のために、死なれたイエス様を見よう。
そして、よみがえられたイエス様を見よう。

だから、私達はイエス様のために生きていける。
イエス様こそ、命を懸けるにふさわしいお方だから。

God Bless You!!

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