2012年12月22日(土)
『今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう』テモテの第二の手紙4章8節
ある日、保険のセールスマンがひとりの男性を訪ねた。
セールスマンは、すべての可能性に細心の準備をする必要があると話した。
「万一、あなたに何か起きたら…」と続けたが、その男性は、「そんな言い方はやめてください」と、その言葉をさえぎった。
セールスマンは当惑して、「お気に障る事を何か申しましたか」と尋ねたところ、「ええ。あなたは、人生で唯一確実な事を、単なる可能性のようにおっしゃいますね。
死は、もしかしてではなく確実に訪れます。
死を問題にする時には、「もし」ではなく、「その時」と言うべきです」。
そして、こう続けた。
「ところで、あなたに何かあった時、実際にはどうなるかご存じですか」と。
何とも頑固親父である。
だけど、彼の言葉は真実だ。
この世で生きている限り、死は必ず訪れる。
それは「もし」ではなく、「その時」だ。
だけど私達は、その時が来たら、どうなるかを知っている。
イエス様が、十字架で罪のために死んでくださったので、死は勝利にのまれてしまったのだ。
だから、イエス様を信じる私達は、いつでもイエス様のみもとに行ける事を知っている。
クリスチャンとは、死ぬ準備ができている人達だ。
厳しい言葉かも知れないけれど、死ぬ準備ができている者だけが、生きる準備をする事ができるのだ。
God Bless You!!
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