2023年8月3日(木)
『望まれない病』
重い病に付随する社会的不名誉を、イエスは知り尽くしておられた。
レビ記の律法は、ツァラアトに冒された者は町の外に住み、だれからも2メートル離れ、埋葬に行く会葬者の衣を着るようにと定めていた。
そうした社会から見捨てられた者が群衆の間を歩くとき、人々の間に憤慨が広がったことが容易に察せられる。
人々はその人から遠ざかったに違いない。
男はイエスの足もとに身を投げ出してこう言った。
「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」。
この場面について、マタイ、マルコ、ルカは異なった説明をしているが、三者とも度肝を抜くような同一の文を入れている。
「イエスは手を伸ばして彼にさわり……。」
群衆は息をのんだに違いない。
モーセの律法は、そうした行為を禁じていなかっただろうか。
病に冒された男は身を離したかもしれない。
温かい人間の肌と触れ合う感覚が奪い去られて何か月、いや何年が経っていたことだろう。
イエスが触れたとき、安らぎをなくした病気の状態に終止符が打たれた。
平安が取り戻されたのだ。
病気に対するイエスの対応は、彼を中心につくられた教会にある型を与え、クリスチャンはイエスを手本として、病人、貧しい人々、社会から見捨てられた人々の世話をした。
ハンセン病患者の場合、教会はときに「神ののろい」のメッセージや惨めさを加えることもあったが、同時に個々人が立ち上がって治療の道を切り拓きもした。
修道院は献身的にハンセン病患者の世話をした。
この病が科学的な突破口を見いだすのは、宣教師たちによるところが大きかった。
率先してハンセン病患者に尽くしたのは、宣教師だけだったからだ。
マザー・テレサのもとで働く修道女たちは、コルカタでハンセン病患者のためのホスピスも診療所も運営している。
マザーはこう言ったことがある。
「ハンセン病のような病気にかかった人々のための薬を、私たちは持っています。
しかしこうした薬は、『必要とされない』という、患者のいちばん大きな問題を治療しません。
それを治療するものを、私のシスターたちが提供したいと願っています。」
マザーによると、病人や貧しい人は、物質的な欠乏よりも拒絶される苦しみを抱えていることのほうがずっと多い。
「オーストラリアのアルコール依存症患者は言いました。
通りを歩いていると、向かって来る人の足音も、通り過ぎて行く人の足音も、どんどん速くなる。
孤独、そして必要とされていないと感じることは、何よりも悪質な貧困です。」
その必要に応えるには医者でなくてもいいし、奇跡を起こす人でなくてもいい。
God Bless You!!
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