今日の手紙

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。」コリント人への手紙第一15章20~22節
もし神が完全なら、なぜ私たちは苦しむのでしょうか。
この質問は万人に共通ですし、人類と同じくらい古くからのものです。
それは今もって問われていることです。
仏教は答えを準備し始めました。
人がすべての願望を排除すればすべての苦しみは消えると仏陀は言いました。
しかし、苦しみは残り、愛の神はいまだに苦しみや不正や死があふれる世界を創造するのかと、私たちは問うのです。
神は罰として苦しみを与えるという人もいました。
また、神は創造した世界を支配しないし、関心もないし、偶然が支配するという人もいます。
残念ながら、私たちにはわかりません。
私たちは単純に嗜僻の苦しみを謎のように受け入れなければなりません。
しかし、ある事実は確かです。
私たちがいかに苦しもうとも、神は私たちを愛してくださるのです。
神は私たちの痛みを喜びません。
事実、キリストにある神は私たちの嗜僻の痛みを彼自身が引き受けてくれているということを信じるあらゆる証拠が存在します。
十字架は私たちの答えです。
神には痛む理由がないにもかかわらず、私たちのすべての罪と苦しみをご自分のこととして背負われたのです。
神は私たちの境遇を見て取り、私たちを愛し、命と栄光へといざないます。
苦しみが不可解で、不思議なように、救い主の愛の癒しの腕に私たちを引き寄せる十字架上での私たちへの愛はさらに不思議です。
イエスの十字架の下に倒れるとき、イエスと共に死に、それから復活の日にイエスと共に起き上がるのです。
イエスは蘇り、私たちも蘇るのです。
主よ、
私は、十字架上のあなたの愛の手に私をゆだね、そしてあなたの復活に信頼します。
アーメン
God Bless You!!