2023年10月3日(火)
『恵みの乱用』
「恵みの乱用」がなされ得る危険性を、私は否応なく理解させられた。
ある夜遅く、レストランで友人のダニエルから、十五年連れ添った妻と別れる決心をしたと打ち明けられた。
「何年も感じることのなかった、生きている実感を与えてくれる」人を見つけたと言うのだ。
ダニエルはクリスチャンなので、自分のしようとしていることが個人的、道徳的にどんな結果をもたらすか十分知っていた。
家を出てしまえば、妻と三人の子どもに後々までダメージを与えるだろう。
それでも若い女性に引き寄せられる力は、強力な磁石のように抗いがたく強い、と言った。
そして、とんでもないことを言った。
「本当のことを言うとね、フィリップ、今夜君にここへ来てもらったのは、ほかでもない、前から聞きたかったことがあるからなんだ。
君は聖書をよく勉強しているよね。
ぼくがしようとしているようなひどいことを、神は赦すことができると思うかい?」
ダニエルの質問は、まるで生きた蛇のようにテーブルの上にのっていた。
コーヒーを飲みながら、恵みの余波について一生懸命考えた。
赦しがすぐそこにあることを理解している友人が、恐ろしい過ちをしでかすのを、どうやって思いとどまらせることができるだろうか。
恵みには確かに「問題点」がある。
聖アウグスティヌスによると、「神は、ご自身がからっぽと見た手に恵みを与えてくださる」という。
両手に包みをいっぱい抱えている人は、贈り物を受け取ることができない。
恵みは受け取られるものなのである。
私が「恵みの乱用」と名づけたものは、見逃すことと赦すこととを混同させたために生じる、とルイスは説明している。
「悪を大目に見るということは、それを無視し、あたかもそれが善であるかのごとくに取り扱うことです。
しかし赦しが完全となるためには、それは赦す側によって提供されるだけでなく、赦される側が受け入れなければなりません。
けれども罪を認めない人間は、赦しを受け入れることができないのです」。
私は友人ダニエルに、だいたいこんなことを語った。
「神は君を赦すことができるだろうか。
もちろんだ。
君は聖書をよく知っている。
神は殺人者や姦淫を犯す者をもお用いになる。
なんといっても、ペテロやパウロという、ろくでもない二人が新約の教会を導いたのだから。
赦しはぼくらの側の問題であって、神の問題ではない。
ぼくたちは罪を犯すとき、神から遠ざけられる。
反逆行為を行うとき、ぼくたちは変わってしまうわけだ。
そして、元に戻る保証もない。
君は今、赦しのことをぼくに聞いているけれど、赦しに悔い改めが必要だとしても、後から赦しを求めるだろうか。」
God Bless You!!
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