2023年7月19日(水)

2023年7月19日(水)


『赦しというつまずき』

心の停戦に合意しようとする人はみな、赦しという言語道断の行為に直面することになる。
不当な仕打ちを受けていると思えば、私は相手を赦さない理由を百も考え出すことができる。

「彼は反省しなければならない。」
「ぼくは無責任な行動をとらせたくない。」
「彼女にはしばらく思い悩んでもらおう。本人のためだ。」
「行動には結果が伴うことを彼女は知る必要がある。」
「こちらがひどい仕打ちを受けたんだ。だから、最初にこちらが動くべきではない。」
「彼自身が悪いと思っていないなら、どうしてぼくに彼が赦せるだろう。」

疲れ果てるまで、こうした議論を延々と述べ立てる。
ついに態度を軟化して赦そうかと思うとき、まるで白旗を出したように、確かな論理から感傷的なものへと飛躍したような気がする。

なぜそんな飛躍をするのか。
クリスチャンとしての私をそのように動かす一つの要因は、赦してくださる父なる神の子どもとして、赦すよう命じられているからだ。

そして少なくとも三つの実際的な理由を確認できると思う。

第一に、赦しだけが「恵みでないもの」の鎖を断ち切り、非難と痛みの循環に終止符を打つことができる。
赦さなければ、人は自分が赦すことのできない人々に縛られ、彼らの罪深い力に抑えつけられたままになる。

第二に、赦しは加害者の罪意識の支配を緩めることができる。
自分に不当な仕打ちをした人を赦しながら、なおその行為に対して正当な懲罰を要求しているかもしれない。
しかし、赦すことができれば、自分にも、不当な仕打ちをした人にも、赦しによる癒しの力が流れ込む。

そして第三に、赦しは、赦す者を不当なことをした者と同じ側に立たせるという驚くべき結束を促す。
そうすることで予想に反して、悪いことをした者と自分がそれほど変わらないことを私たちは認識する。

「わたしもまた、自分でそうだと想像しているものとはちがったものです。
このことを知るのが、赦しです」とシモーヌ・ヴェイユは言っている。

赦し———全く不相応と思える———は束縛を断ち、罪の重荷を取り除く。

新約聖書に描かれているのは、赦しの三つの儀式を通して、ペテロを優しく導いておられる復活のイエスだ。
ペテロは、神の御子を裏切った男としておどおどしながら生涯を過ごす必要はなかった。
そう、全くその必要はなかった。

そして、そのように変えられた罪人たちを基として、キリストは教会を建てようとされたのだ。

God Bless You!!


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