2023年6月7日(水)
『受けずにすんだはずの苦しみ』
クリスチャンが何より貢献できるのは、人々がお門違いの理由で苦しまないようにすることだ、と思うようになった。
痛みは「尊ぶ」ことができる。
最も重要な意味で、痛みはすべて痛みである。
偏頭痛による痛みか、連鎖球菌咽頭炎による痛みか、急性のうつ病による痛みか、そんなことはどうでもいい。
苦しむ人を助けたり私たち自身の痛みを受け入れる第一歩は、痛みは正当なものであり、同情を受けるに値すると認めることだ。
そんなふうにして痛みに意味を与えることができる。
クリスチャンは違ったレベルで、さらなる価値を苦しみに付け加えることができる。
入院患者を見舞う人は、火のついた炭をくべるように患者の罪意識を増し加えたり、苦しみを広げたりする。
「祈りましたか。
神が癒してくださるという信仰がないのですか。」
混乱させることもできる。
「この痛みはサタンが起こしているのですか。
単なる自然の摂理ですか。
それとも神はあなたを他の人々の模範として特別に選ばれたのですか。」
痛みは罪意識をいとも簡単に生み出しもする。
私たちはみな、するべきでないことをし、痛みに見舞われると、その原因は自分にあると考えて自らを責める。
激しい痛みに襲われているときには、善意の忠告も害を及ぼすことがある。
「神はお嬢さんを強く愛しておられたので、こんなに早く天に連れて行かれたのですよ。」
こんな言葉をかけたくなるかもしれないが、残された親は、神は娘をそんなに愛してくださらなくてよかったのに、と思うことだろう。
「神は耐えられないような重荷はお与えになりません。」
苦しむ人は、重荷が少ないほうが得だから、弱い信仰心の持ち主だったらよかったと思うかもしれない。
多くの苦しむ人たちに取材して、見舞い客の言葉から受けた苦 痛のほうが、病気そのものの痛みより大きい場合もあることを知った。
クリスチャンの間で著名なある女性は、顎関節症の苦しみをつらそうに語った。
痛みに支配された生活を送っている彼女は、こんなことを言った。
「クリスチャンが大好きな、神が苦しみを許される理由を説明する公式があります。
その公式に基づいて、苦しむ人をさばくような手紙をもらったときに受ける痛みは、顎の痛みをはるかに超えています」と。
クリスチャンにできる最大のこととは、人々が誤った理由で苦しまないようにすることなのかもしれない。
God Bless You!!
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