2023年6月23日(金)
『であるかのような行動』
イエスは言われた。
「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。
だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人に、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります」。
順序に注目してほしい。
神のみこころを行う選択をすると、確信が後に続くのだ。
イエスは、信仰の旅路とは不確実性と脆弱な信頼の中で始められる個人的なものである、と述べておられるのだ。
心理学者の中には、どれほど非現実的に見えようとも、ある特定の状態が真実であるかのように行動するよう患者を仕向ける行動療法を実践している人々がいる。
この学派の人々によると、過去を探索したり、動機と行為を同調させようとしたりするのでなく、変化が起こるように行動することで人の行動は変わるという。
気持ちを行動に影響させるより、行動の仕方を気持ちに影響させるほうが、はるかに容易だというのである。
結婚生活を存続させたいのに、妻を本当に愛している確信がもてないなら、妻を愛しているように行動してみることだ。
彼女を驚かせ、愛情を示し、贈り物をし、思いやりを示す。
そうしたことを実行するうちに、愛の感情が本当に生まれることに気づくかもしれない。
父親を赦したくても自分にはできないと思ったら、父親を赦しているかのように行動するのだ。
たとえ心から言っているという確信がもてなくても、「お父さんを赦します」とか、「大事に思っています」と言う。
こちらが行動を変えると、びっくりするほど相手が変わることは多い。
同様のことは、私と神との関係にも働く。
神を喜ばせたいという本能的願望から完璧な従順が湧き出てくればよいのだが、悲しいかな、そういうふうにはなかなかいかない。
私にとって信仰生活は、すべてのことが真実であるかのように行動することで成り立っている場合がある。
神は私を限りなく愛してくださり、善は悪に打ち勝ち、どんな災いも贖われ得る、と私は思っている。
といっても、その確信があるわけではなく、自分を激励するような真理の啓示に遭遇することも稀だ。
私は、神が愛にあふれた父親であるかのように行動する。
隣人たちを真に神のかたちをとどめている人であるかのように扱う。
私を不当に扱う人々を、神がまず私のことを赦してくださったようにして赦す。
God Bless You!!
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