2023年6月21日(水)
『機能している信仰』
真理を広める手段として、理論上だけでなく実際日々の営みの中で信仰がどう働くかを探究する必要があると思う。
私自身、信仰生活でたくさんの驚きに遭遇した。
もちろん、深い穴や暗い道などがなく、予想外の遠回りもしない旅であれば、人は信仰を必要とすることもないだろう。
修道士の中には、霊の強さが外にあふれ、活動のすべてを浸しているような完成された人生を語る人もいる。
その場合もやはり、決められた時刻に祈りや礼拝の時をもつ霊のコミュニティーで生活し、日々の生活を遮る携帯電話やテレビをもたない人がほとんどだ。
一方、全部こなせるはずもない予定を書いたリストとにらめっこしながら、沈黙をかき消し、休息があれば埋めようとする文化の中に生きている私たちはどうだろうか。
朝起きると、私はまず意図して神に意識を集中させ、静かなその一点から落ち着きと平安が広がり、これから始まる一日のすべてに影響するようにと願う。
ほんの30分だけ落ち着いた時間を過ごし、あとは騒々しい一日を送るとしても、静かな時間をもつ努力をする価値はある。
以前は、結婚、仕事、親しい友人、神との関係等、人生で大切なものは、すべてきちんと秩序づけられていなければならないと考えていた。
コンピューターのうまく機能しないプログラムのように、一か所でも欠陥があると、システム全体がクラッシュしてしまうと思っていた。
その後、どこか一か所が最悪の事態に落ちていくときでも、いや、そういうときにこそ、神を追い求め、神の恵みに寄りかかることを学んだ。
自らの信仰について公にものを書き、話をする者として、自分は価値がないとか偽善的だなどと感じるときがある。
それでも、その自分は神が用いてくださる「土の器」なのだと認めることができるようになった。
だから、私は、構成を組み立てる段階で自分にとって真にいのちのある話をしたり説教をしたりすることができる。
たとい話すときに、心の中に葛藤があったり、友人から受けた傷口の手当てをしていたりしても、である。
また、人に強く勧めていながら、自分には達成できないと気づいて心を痛めていても、自分が真実であると思うことは書くことができる。
今この瞬間に信仰を実践するとは、残る生涯でどんな混乱が起きようと、自分が出合うことを通して神は確かに働いておられると信じることだ。
自助グループの人たちが教えてくれたように、無力さこそが私たちを神へと駆り立てるのだ。
God Bless You!!
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