2023年4月6日(木)
『虚しさに触れること』
あらゆる霊の巨匠がたましいの闇夜のことを語っていることに、私は慰められている。
闇夜はすぐに去るときもあれば、何か月も何年も執拗に続くこともある。
しかし、不毛の時期を経験したことがないと証言する人を一人も見つけたことがない。
アビラのテレサはほとんど祈れない状態で二十年過ごした後、祈りの巨人として姿を現した。
ウィリアム・クーパーは、祈っているとき喜びがあふれて死ぬかと思うような経験をしたという。
だが、その後こう述べている。
「自分は神から遠いところへ追放された。
それに比べれば、東洋と西洋の距離のほうが余程近い」と。
書物や雑誌ばかりでなく、ラジオやテレビの宗教番組も神の沈黙についてほとんど語らない。
それらによれば、神は流暢に語り、あの伝道者には新しい聖所を建てるように、また、あの主婦にはインターネットを基盤に起業するよう命じておられるらしい。
神は、成功、好感、心の平安、ほんわりとしたぬくもりを意味しているようだ。
そのような感動的な話を堪能した視聴者にとって、神の沈黙との出合いは衝撃的な例外であり、そんなことは間違っている、という思いを抱かせる。
本当は、現代の消費者志向信仰の朗らかな楽天主義のほうが例外なのだ。
クリスチャンは、『天路歴程』に描かれた失敗ばかりの巡礼者や、十字架の聖ヨハネの『暗い夜』、トマス・ア・ケンピスの挑発的な『キリストにならいて』から学んできた。
神の臨在について最も率直に書いたメンター、ブラザー・ローレンスは、皿洗いやトイレ掃除をしながら思索を深めた。
たましいの無味乾燥に苦しんだり、暗闇や虚しさに悩んだりしているとき、自分の祈りに新しいいのちが入ってくるまで祈らずにいるべきだろうか。
霊の巨人たちはみな、「ノー」と言う。
祈ることをやめたら、祈りがいのちを取り戻したとき、どうやってわかるだろう。
また、多くのクリスチャンが発見してきたように、祈る習慣よりも、祈らない習慣のほうが、はるかに捨てづらい。
God Bless You!!
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