2023年3月13日(月)

2023年3月13日(月)


『それはある午後に』

十字架はキリスト教の中心メッセージだ。

フラナリー・オコナーが、世界は「どれほど恐ろしいことがあっても、神は、ご自身が死ぬに値するほど価値のあるものであると思われた」と言ったほど、これは疑いようのないことだ。

受難週に私は、贖いの理論的根拠というよりも、贖いによって実際何がなされたかを考えていた。

ある人が神学者カール・バルトに質問して、いつ「救われた」のかを突きとめようとしたとき、バルトはこう答えた。

「私が救われたのは、イエスが十字架で息絶えた紀元34年のある日の午後です。」

愛は、どれほどの犠牲を払っても、愛する人たちとの結びつきを妨げるあらゆる障害を克服する道を見いだすものだ。

また十字架は、人間に可能なことの限界も暴露している。

ポンティオ・ピラトはイエスの「罪状書き」……ユダヤ人の王……を三つの言語で書いた。
それは正義のまがい物に対する皮肉な賛辞であった。

当時の最も教養ある宗教的権威らが手を組んで無実の男を攻撃し、最も誉れある司法制度がその処刑を実行したとき、世の人々は固唾を呑んで見守った。

トマス・マートンは言う。
「だれも復活を見なかった。
だれもが十字架を見た。
だれもが確かに十字架を見ている。
十字架はいたるところにある。」

人間にとって最も深い問題を解決するために、政治や科学を当てにしたい誘惑に駆られるとき、私たちはこの矛盾のしるしに立ち止まる。

人々が何よりも誇りにし、大きな希望を抱いている権力や権威が偽の神々であることを、キリストは暴露された。

さらに、十字架は、神の思いがけない性質を明るみに出す。
パウロの言葉を借りると、イエスは「神としてのあり方を捨てられないとは考えず、___自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」。

アパラチアやラテンアメリカの地域コミュニティーで聞かれる、十字架を中心とする説教に表れているように、貧しい人々や恵まれない人々は、自分と同じような存在であるということに本能的に反応する。

作家たちもそれを知っている。
グレアム・グリーン、ジョルジュ・ベルナノス、イニャツィオ・シローネはみなイエスの死を記念する聖餐式を、彼らの傑作の中心素材とした。

私たちがどう言おうと、贖罪は、ただ傷ついた人だけが赦すことができるとのユダヤの原則を成就している。
カルバリで、神は傷つくことを良しとされた。

God Bless You!!


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