2023年2月10日(金)

2023年2月10日(金)


『ゆっくり優しく』

荒野の誘惑は、神の力とサタンの力の奥深い違いを暴露している。

サタンは強要し、目を眩ませ、服従を強制し、破壊する力をもっている。
人間はその力から多くを学び、政治もこの力の貯蔵庫から多くを手に入れている。

人は他の人を思いのままに動かすことができるものである。
サタンの力は外面的であり、強制的だ。

神の力はそれとは対照的に、内面的であり非強制的だ。
そういう力はときに弱々しく見えるかもしれない。

神の力は穏やかに内側から変容することで遂行され、またあくまでも人間の選択に依存する点において、放棄に似ているかもしれない。
親や恋人ならだれでも知っているように、愛する相手が拒絶を選ぶとき、愛は無力になる。

「神はナチスではない」と、トマス・マートンは言った。
実際、神はナチスではない。
宇宙を統べ治めるイエス・キリストは宇宙の犠牲者になった。

神はご自分をある目的のために弱いものとされた。
その目的とは、神をどう扱うのか、人間に自由に選ばせることだった。

セーレン・キェルケゴールは、神の優しい触れ方についてこう書いた。
「世界にずっしりと御手をかけることのできる全能の主は、被造物が主体性をもつことができる程度にそっと触れることもできる。」

神がもっとしっかりと触れてくれたらいいのにと思うこともある。
自由も誘惑もありすぎて、私は疑いのほうへ向きがちだ。

ときには神に圧倒されたい。
私の疑う心を確実に打ち負かし、神が存在し、人間に関心をもっておられるという決定的な証拠を示してほしい。

神には、人間に関する事柄や私個人の歴史に対しても、もっと積極的な役割を果たしてほしい。

なぜ神は「手をこまねいて」いるのだろう。
私の祈りに迅速かつ劇的に答えてもらいたい。
私の病気を治し、大切な人々を守り、安全を確保してほしい。
疑い深い友人たちに指し示すことができるような、曖昧さのない神が欲しい。

こんなことを考えていると、サタンが二千年前にイエスに叩きつけた挑戦の、薄っぺらで空しい言葉が自分の中でこだましていることに気づかされる。

イエスが地上での誘惑に抵抗されたように、神は今、そうした誘惑に抵抗し、ゆっくりとした穏やかな方法を選んでおられる。

God Bless You!!


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