2023年12月29日(金)
『獅子を飼いならす』
イエスは、私がかつて教会学校で出会ったロジャースおじさんのような人物に少しも似ていないし、バイブル・カレッジで学んだ人物とも著しく異なっていた。
たとえば、イエスは一筋縄ではいかない人物だった。
かつてもっていたイエスのイメージは、「スタートレック』に出てくるバルカン人の性格にそっくりだった。
バルカン人は常に冷静沈着、落ち着き払い、興奮しやすい人間たちの乗った宇宙船地球号の中をロボットのようにのし歩いていた。
ところがそれは、福音書や名画に描かれているイエスの姿ではない。
イエスの心は他の人々から深く影響を受けていた。
人間の強情さに憤りを感じたり、自己正当化に激怒したり、素朴な信仰に心を躍らせたりした。
実際、イエスは人並み以下どころか、人並み以上に感情的、情動的のようだった。
イエスを研究すればするほど、整理分類するのが困難になった。
イエスと同郷の人々の話題はおもにローマの占拠についてだったのに、イエスはそれについてほとんど何も語られなかった。
ところが彼は鞭を手に取り、利を貪る者どもをユダヤの神殿から追い払われた。
違法者との評判を得る一方で、モーセの律法に従うよう熱心に説かれた。
中傷されながらも異邦人をあわれんだのに、最高の友に「下がれ、サタン」と厳しく叱責された。
富裕な者やふしだらな女についてしっかりとした見解をもっていたが、どちらのタイプの人間もイエスとともにいることを喜んだ。
ある日には奇跡がイエスから流れ出したかと思うと、翌日は人々の信仰が足りないためにその力は妨げられる。
ある日に再臨について詳しく語ったかと思うと、別の日にはそれがいつなのかわからないと言われる。
捕らえられないよう逃げたときもあれば、説得にも耳を貸さず捕らわれていったこともあった。
平和をつくることについて雄弁に語ったかと思えば、弟子たちに剣を手に入れなさいと言われた。
自分自身について語った途方もない主張のせいでイエスは常に議論の的だったが、本当に奇跡を起こしたときには口止めする傾向があった。
ウォルター・ウィンクが言ったように、もしもイエスが生きていなかったら、私たちは彼を想像で作り上げることなどできなかっただろう。
福音書のイエスに似つかわしくない言葉が二つある。
退屈と意外性のなさだ。
それほどの性格を、なぜ教会はおとなしいものにしてしまったのだろう。
ドロシー・セイヤーズの言葉で言えば、「ユダの獅子であるイエスの爪をきれいに切って、青白い顔の教区牧師や敬虔な年配の女性のペットに最適とのお墨付きを与えてしまった」のだろうか。
God Bless You!!
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