2023年12月25日(月)
『ことばは語った』
大雪のコロラド山中で、二週間ほど山小屋に閉じ込められたことがある。
道という道が猛吹雪のせいで封鎖され、聖書を読むことしかできなかった。
一ページずつゆっくり読み進めた。
気がつくと、旧約聖書の中で神に堂々と楯突いた人間に自分を重ね合わせていた。
モーセ、ヨブ、エレミヤ、ハバククと詩篇の記者たちだ。
読みながら、芝居を観ているような気持ちになった。
芝居の登場人物たちは、舞台の上でささやかな勝利や大きな悲劇に見舞われる人生を演じながら、目に見えない舞台監督に向かって繰り返し呼びかける。
「こっちがどんなものか、あなたにはわからないんだ!」
ヨブほど、歯に衣着せず神を糾弾した者はいない。
「あなたには肉の目があるのですか。
あなたは人間が見るように見られるのですか」。
たびたび幕の後ろ、舞台のずっと奥から轟くような声が鳴り響いた。
「そうだ。
だが、おまえだって、この舞台裏がどんなものかわかっていやしない!」
神はモーセに、預言者たちに、そしてヨブには最も声高にそう語られた。
しかし福音書に来ると、この問いつめるような声は静まった。
こういう言い方が許されるのならば、神は、地球という星の中の人生がどのようなものか「理解された」。
ヨブの苦しんだ埃っぽい平原から遠くない場所で、イエスご自身が悲しみ苦しみながら、短く困難な生を知られた。
神が人間になった理由はたくさんあるが、その中の一つは確かにヨブの、「あなたには肉の目があるのですか」という非難に対する答えだった。
神はいっとき、肉の目をもたれたのだ。
「ヨブのように嵐の中から神の声を聞き、神ご自身と言葉を交わすことさえできたなら!」
そう思うことがある。
そして、おそらくそれがイエスについて書こうと私が決めた理由なのだ。
神は沈黙しておられない。
「ことば」は語ったのだ。
嵐の中からではなく、パレスチナのユダヤ人という人間の喉から語られたのだ。
まるで今まで生きてきたあらゆる懐疑論者の詮索好きな目のため、十字架に身を投げ出すかのように、神はイエスという姿になって解剖台の上に横たわられた。
そして、私もその懐疑論者の一人なのだ。
God Bless You!!
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