2023年12月2日(土)
『現代的な絶望ではない』
その言葉を初めて見たのは、兄が大学から持ち帰った真っ赤な本の表紙だった。
『今日の実存主義」。
「実存主義」の意味はさっぱりわからなかったが、その本は私を前衛的な哲学の秘密の世界へ招き入れた。
ファンダメンタリズム一色の環境に育ち、前衛という危険な汚染物質から守られていた私には、パリのリブ・ゴーシュ〔訳注=セーヌ川南岸の地域で、学生・芸術家などが集まる場所〕の文化といっても、アフリカの都市ワガドゥグの文化と何ら変わらない遠い存在だった。
それでも1960年代に十代の若者だった私は、その赤い表紙の本を読み、さらにカミュやサルトルの小説を読むにいたって、心の内に何かが呼び覚まされた。
平板な感情、他者に対する過激なまでの無関心、漂泊しているような感覚、痛みに対する麻痺、おかしくなった世界をあきらめながら受容すること。
こうした性質すべてが、どういうわけか、外部からの影響を拒むファンダメンタリズムの盾からもしみ込んでいた。
「私のことだ!」
実存主義の本を読むたびにそう思った。
私も所詮、時代の子であった。
いま振り返ると、自分がもっぱら絶望と一体化していたことがわかる。
なぜ自分は生きているのか。
このお祭り騒ぎはいったい何なのか。
50億人中の一人が、この星に何か変化をもたらすことができるのか。
フランスの小説家やヘミングウェイ、ツルゲーネフの著作を読みながら、そうした疑問が大海の波のように私を打ちのめした。
60年代の騒然とした疑問が繰り返し押し寄せ、実存主義は、「答えはない」と主張することで、ある程度の答えを提供していた。
今流行している文学ジョン・アップダイク、カート・ヴォネガット・ジュニア、ジョン・アーヴィング、イェールジ・コジンスキー、ウォーカー・パーシーも同じ無益な臭い、古い煙草の煙のような、すえた臭いを放っていた。
カール・ユングは、扱った事例の三分の一の人たちが「人生の無意味と空虚」と定義するほかない神経症に苦しんでいると報告した。
さらに、人々は哲学や宗教にも答えられない問題で苦しんでいるため、無意味さが現代に一般的な神経症になっていると言った。
青春時代に実存主義と出合った数年後、そして神が無益と絶望という感情をいくらか癒してくださるようになった後、ほかならぬ聖書の真ん中に、それと全く同じ所感を発見して不気味な衝撃を受けた。
伝道者の書は神秘的で無視されることも多い書だが、そこには私が実存的絶望の作家たちの間で出合った考えや感情が一つ残らず含まれていた。
〔12月3日に続く〕
God Bless You!!
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