2023年12月17日(日)
『なんと静かに』
あるクリスマスシーズンに、ロンドンの美しいホールでヘンデルの『メサイア』を聴いていたときのことだ。
大合唱団が「主の栄光が現れる」日のことを歌っていた。
私はその日の午前中に博物館で、英国の栄光の名残を鑑賞したばかりだった。
王冠の宝石、統治者の持つ笏、金メッキを施したロンドン市長の馬車などだ。
すると、あの約束を最初に聞いたイザヤと同時代人の心に広がっていたのも、そういう富や権力のイメージだったのではないかという気がした。
イザヤの言葉を読んだユダヤ人たちが痛切な郷愁をもって、「王はエルサレムで銀を石のように用い」ていたソロモンの栄華の時代を思い出していたことは間違いない。
しかし、姿を見せたメシアが身にまとっていたのは、全く違った種類の栄光、謙遜という栄光だった。
ネヴイル・フィッギス神父は書いている。
「『アッラーは偉大なり』というイスラム教徒の叫びは、超自然的存在に教えてもらう必要もない真理である。
神は小さい。
それこそイエスが人間に教えた真理なのだ。」
号令をかけ、軍隊や帝国にチェス盤上のポーン(歩)に対するがごとく、あれこれ指図できるはずの神。
だが、この神はしゃべることも硬い物を食べることも膀胱のコントロールもできない赤ん坊、住む所も食べ物も愛もティーンエイジャーに頼りきっている赤ん坊として、パレスチナにやって来た。
ロンドンのホールで、女王やその家族が座るロイヤルボックスのほうに目を向けると、支配者たちがこの世を闊歩する、より典型的な仕方が見て取れた。
護衛官、トランペットのファンファーレ、色鮮やかな衣装ときらびやかな宝石類の見せびらかし。
エリザベス女王二世は最近合衆国を訪れたが、記者たちは女王の四千ポンドもの荷物について喜々として細かく報道した。
行事ごとに二着分揃えてある衣装、葬儀に参列する場合の喪服、〔緊急のための〕20リットルの血しょう、白ヤギの革で作った便座カバー。
お抱え美容師とボーイ、そのほか大勢の従者を伴っていた。
対照的に、神が地球を訪れたときにいた場所は、従者など一人もいない家畜小屋で、生まれたばかりの王を横たえる場所も飼葉桶一つだった。
ロバがこの王を踏んづけてしまうかもしれなかった。
「なんと静かに、なんと静かに、この驚くべき贈り物は与えられたのでしょう。」
God Bless You!!
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