2023年11月28日(火)
『たましいのセラピー』
詩篇は私にとって、霊のセラピーのモデルだ。
かつて「神に失望したとき』という本を書いたとき、出版社側は最初このタイトルに難色を示し、「神への失望を克服する』にしたらどうかと言ってきた。
素晴らしいクリスチャン生活に関する書物で埋めつくされたキリスト教書店に、否定的なタイトルの本を紹介することはいささか異端的と思われたのだ。
しかし聖書には、神にいたく失望した人々———もの柔らかな言い方をすれば———が詳しく書かれている。
神と話をして決着をつけたのはヨブやモーセだけでなく、ハバククやエレミヤ、そして名も知れない多数の詩篇の記者たちもそうだ。
詩篇の中には、「神に激怒して」や「神に裏切られて」、「神に見捨てられて」、「神に絶望して」というタイトルにしたほうがふさわしいものもある。
詩篇89篇を考察してみよう。
いつまでですか。主よ。
あなたがどこまでも身を隠され
あなたの憤りが火のように燃えるのは。
あなたがすべての人の子らを
いかにむなしいものとして創造されたかを。
また詩篇88篇にはこんな思いも書かれている。
主よ なぜあなたは私のたましいを退け
私に御顔を隠されるのですか。
私は暗闇を親しい友としています。
霊的挫折の場面が神聖な書物の中に入っているのは奇妙に思えるが、それはセラピーの重要な原理を実際に反映している。
結婚セラピストは、よく新来患者に警告する。
「あなたがたの関係は、悪化した後に改善することがあります」と。
長年抑え込まれてきた不満や恨みがあらためて浮上する可能性があるのだ。
真の理解が満ちる前には、誤解がありのままにさらけ出されなければならない。
詩篇も心理分析のように、私たちのもつ神経症的要素を明るみに出す助けをするのかもしれない。
のろいの詩篇、賛美の詩篇、告白の詩篇等の奇妙な混在は、もはやかつてのように私の神経に障ることはなくなっている。
代わりに、ヘブル詩人たちの完璧な霊性に驚かされ続けている。
彼らは、日々の活動で経験するどんな感情の中にも神をもち出し、人生のすべての領域に神を取り込もうとした。
人は神に会うために「おめかし」したり「取り繕ったり」する必要はない。
壁で仕切られた領域などない。
に信頼できる存在なのだ。
ヘブル詩人にとって神は、自分たちの揺れ動く感情や、変化に富んだユダヤ人の歴史以上に、しっかりとした現実性を表していた。
彼らは人生のあらゆるところで神と戦ったが、まさにその戦うという行為が、最終的に彼らの信仰を証明したのである。
God Bless You!!
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