2023年10月9日(月)
『不釣り合いなパートナー』
神と私を不釣り合いなパートナーと呼ぶのは滑稽だ。
それでも確かに神は私たちを、地上で神の国のわざをするよう招くことで、おかしなカップル同盟のようなものを設定しておられる。
神はいわば歴史を共に進めるために、私たち人間に働きを委ねておられるのだ。
このパートナーシップには明らかに一人の支配的パートナーがいる。
米国とフィジー、あるいはマイクロソフト社と高校生のプログラマーでつくる同盟のようなものだ。
人間がそのように不釣り合いの同盟を形成するとどうなるか、私たちはよく知っている。
支配的なパートナーがわがままを押し通し、従属的なほうはたいがい黙っているものだ。
だが、私たちのようなものから脅かされるはずもない神が求めておられるのは、正直な対話をし続けることだ。
神がなぜ正直であることをそれほど高く評価されるのか、人間の不当とも言える感情の爆発にもそれほど忍耐なさるのか、不思議に思うこともあった。
聖書に記されているいろいろな祈りをあらためて調べると、不機嫌な口調の祈りが多いことに驚かされる。
不公平だと不満をもらすエレミヤ。
「どんな益があるのか。私たちが彼に祈り願ったところで」と、不本意ながら認めているヨブ。
神は耳が聞こえないといって責め立てるハバクク。
聖書は激烈なほど正直に祈ることを教えている。
ウォルター・ブルッゲマンは、詩篇に率直さが見られる理由をこう述べている。
「なぜなら、人生がそのようなものだからである。
これらの詩は人生の一部でなく、すべてに対して語りかけるよう意図されているからである。」
ブルッゲマンは、詩篇の半分は、「この世で経験する矛盾についての嘆き、抗議、不平の歌」であるのに、朗らかな福音派の教会を訪ねて楽しそうな歌だけを聞くのは不快だと言う。
「少なくとも、生の現実に直面して、『楽しい歌』を歌い続ける教会が、聖書そのものと大きく異なることをしているのは明らかだ。」
聖書の祈りから学んでいるのは、神は私たちと分かち合いたい、不満を打ち明けてほしいと思っておられる、ということだ。
心の中では血を流しているのに、微笑みを縛って人生を闊歩するなら、私は神との関係を傷つけることになる。
God Bless You!!
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