2023年10月7日(土)

2023年10月7日(土)


『なぜ良くあらねばならないのか』

新約聖書に記されている「良くある」ための動機を一語で要約するとしたら、私は「感謝」を選ぶだろう。

パウロは手紙のほとんどを、私たちがキリストにあって所有する豊かさの要約で始めている。
キリストが私たちのためにしてくださったことを理解したら、感謝の気持ちから、そのような偉大な愛に「ふさわしく」生きようと必死になるはずだ。

一生懸命にきよさを求めるのは、神にもっと愛してもらうことが目的ではない。
なぜなら神はすでに愛してくださっているからだ。

パウロがテトスに言ったように、「私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活する……ように教えてい」るのは、神の恵みなのだ。

カトリック作家ナンシー・メアーズは回顧録『月並みな時代』の中で、子どものころの「パパなる神」というイメージに反抗した日々を語っている。

その神は、七面倒くさい規定や禁止令のリストに従ったときにだけ喜ぶお方だ。

「私は、永遠にしてはならないことを今にもしそうな危うさの中にあり、そうした罪を償うために、神に赦しを請わなければならなかった。

このお方がまさに、これは犯すだろうと予測した行為をまず禁じ、そうすることで私を違反者に仕立て上げられたのだ。
『ほら、つかまえた』の神、と言えるかもしれない。」

メアーズはそれらの規則の多くを破り、常に罪意識を感じ、彼女の言葉で言うと、「罪が犯せなくなるただ一つの行為—愛を求める」神の「ご配慮の中で成長するようになった」。

善良でなければならないいちばんの理由は、善良になりたいと思うということだ。

心が変化するには関係が必要だ。
愛が必要だ。

アウグスティヌスは、「愛することによってそうさせられるのでなければ、だれが善良になれようか」と言った。
アウグスティヌスは「神を愛しているなら、あとはしたいようにしてよい」という有名な言葉を述べたとき、真剣そのものだった。

真に神を愛する人は神を喜ばせたくなる。
それが、イエスとパウロが律法全体を、「神を愛せよ」という単純な命令に要約した理由だ。

私たちに対する神の愛の不思議を本当に把握したら、ローマ人への手紙6章と7章に綴られた回りくどい問い———私は何をしてもかまわないのか———は思いつきもしなかっただろう。

私たちは神の恵みを搾取するのでなく、その真の意味を理解しようとして日々を過ごすだろう。

God Bless You!!


a:5 t:1 y:0