2023年10月6日(金)

2023年10月6日(金)


『愛の生活』

〔10月5日の続き〕

こうしたことが、「恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか」という問いに、パウロが「決してそんなことはありません」と、激しい口調で答えた理由を私が理解する助けとなっている。

婚礼の夜の花婿が、花嫁と次のような会話をするだろうか。
「ねえ、君。
ぼくは君をとても愛している。
だから君と人生を共にしたいと心から願っている。

だけど、ちょっとはっきりさせておきたいことがある。
結婚した後、他の女性とどこまでつきあってもいいかなあ?
ベッドを共にしてもいいかい?
キスしてもいいかい?
ときどき浮気するぐらい、気にしないだろう?

君が傷つくかもしれないことはわかるけど、裏切ったぼくを赦すチャンスがあることを考えてくれ!」

そんなドン・ファンに唯一合理的な返答は、顔をぴしゃりと叩いて、「絶対に駄目!」と言うことだ。
明らかに、その花婿には愛の何たるかがわかっていない。

同様に、私たちが神に「どんな罰なら免れる?」といった姿勢で近づくとしたなら、私たちは自分たちへの神の思いを理解していないことになる。

神は私に、主人と奴隷のような関係をはるかに超えたものを望んでおられる。
奴隷の主人は、鞭をもって服従を強要するだろう。
神は社長でもなければ部長でもないし、私たちの命令に従うランプの精でもない。

実際、神は、地上で最も親しい関係よりも、男と女の生涯にわたる絆よりも、親密なものを求めておられる。
神が望んでおられるのは、素晴らしい演技ではなく、心なのだ。
私が妻のために「良い行い」をするのは点数稼ぎのためではなく、彼女に愛を示すためだ。

同じように、神も私に対して、「新しい御霊によって」仕えてほしいと願っておられる。
無理強いではなく、願望だ。

「弟子であるとは、ただ、恵みから生まれ出る人生を意味している」とは、ボンヘッファーの言葉である。

God Bless You!!


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