2023年10月5日(木)
『短期的結果』
ある夏、大学院の学位取得のためにドイツ語の基礎を学習しなければならなかった。
なんと散々な夏だったことか!
友人たちがミシガン湖でボートを走らせ、サイクリングに興じ、カフェテラスでカプチーノをすすっている夕方に、私は指導教官と部屋にこもり、ドイツ語の動詞変化を覚えたりしていた。
週に五晩、一晩に三時間、二度と使わないであろう語彙や活用語尾の暗記に費やした。
この拷問に耐えたのは、試験に通って学位を得るというただ一つの目的のためだった。
学校の教務係がこんな約束をしていたら、どうだっただろう。
「フィリップ、一生懸命勉強してほしい。
ドイツ語を学び、試験を受けてほしい。
しかし前もって約束しておくよ、君は合格だ。
卒業証書ももう書いてある。」
もしもそうだったら、私が楽しい夏の宵を、暑くてむんむんしたアパートの中で過ごしたと読者は思われるだろうか。
まさか、である。
要するにこれが、パウロがローマ人への手紙の中で相対した神学上のジレンマだったのだ。
なぜドイツ語を学ぶのか。
もちろん立派な理由はいくつもある。
言語は考え方やコミュニケーションの幅を広げる等といったものだ。
しかしそうしたことは私のドイツ語学習の動機に一度もならなかった。
学位取得課程を終えるという、ひたすら利己的な理由のために勉強したのであり、目の前にぶらさがっていた結果の脅威が、夏の優先順位を改めさせた。
しかし今日、あのとき脳みそに詰め込んだドイツ語はほとんど思い出せない。
「古い文字」(パウロによる旧約聖書の律法の描写)は短期的結果を生む程度なのだ。
どんな目的ならドイツ語を学ぶ気が起こるだろう。
ある強い誘因力が考えられる。
もしも妻(私が恋に落ちた女性)がドイツ語しか話さなかったら、記録的な速さでこの言語を学んだことだろう。
なぜか。
「この美しい女性」と意思疎通を図りたいと強く願うからだ。
夜遅くまで動詞の変化形を学び、ラブレターの文章にはそれを正しく書き、新しい語彙が加われば、それを心に蓄えて、愛する人に自分のことを表現する新たな方法として組み入れただろう。
報いを受けられるので、意気込んでドイツ語を学んだことだろう。
〔10月6日に続く〕
God Bless You!!
a:5 t:1 y:0