2023年10月31日(火)
『条件をつけること』
友人のリチャードは、今でもヨブ記を聖書の中で最も正直な書と考えているが、その結末は不適切だと思っている。
「ヨブには神が直接現れた。
良かったなと思う。
ぼくにも似たようなことが起こることを、ずっと求めてきた。
でも、神はぼくを訪れてくれたことがない。
ヨブに起こったことがどうして、ぼくの苦しみの助けになるだろう。」
リチャードは、信仰の重大な境界線を指し示していると思う。
ある意味で、私たちが生きている時代は、神が嵐の中からお答えになる前のヨブの時代に似ている。
私たちも、手がかりと噂の中で生きている。
そのため、力と愛に満ちた神に異議を申し立てる者もいる。
私たちも、確実性のないなかで信仰を働かさなければならない。
リチャードはアパートの床にひれ伏して、神にご自身を「現して」くださるようにと懇願した。
神がヨブに対して行ったように、彼も、この目に見える世界に踏み込んでくださることに全信仰を賭けたのである。
そして、それに敗れたのだ。
率直に言って、私は、神がそのようなかたちでご自分の存在証明をする「義務」を負っておられるのかどうか疑問に思っている。
神は旧約聖書で何度もご自分を現された。
そして最後に、イエスという人物となって現れた。
それ以上、どんな具体的な出現を神に求めるのか。
細心の注意を払って言うが、奇跡を激しく求めることは、たとえそれが肉体の癒しであるにしろ、信仰の豊かさではなく、信仰の欠如を露呈しているのではないか。
リチャードのような祈りは、神に条件をつけていると言えるかもしれない。
私たちは奇跡的な解決を切望する場合、目に見える世界で再びご自分を現してくださるという条件をつけて、神に忠誠を尽くすのだろうか。
神から目に見える証明が欲しいと言い張るなら、永久に失望することになっても仕方がないだろう。
真の信仰は、神を思いどおりに操ろうとすることではない。
自分を御旨にかなうところに置こうとすることだ。
偉大な信仰のモデルを求めて聖書を調べると、神と劇的な出会いをした聖徒が、ヨブのほかにほとんどいないことに驚かされる。
聖徒たちは、神に姿を現してくださいなどとは要求せず、神が隠れたままでも信じ続けた。
ヘブル人への手紙11章には、信仰の巨人たちが「その信仰によって称賛されましたが、約束されたものを手に入れることはありませんでした」と記されている。
God Bless You!!
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