2023年10月30日(月)
『失望を扱うこと』
神が隠れておられるとき、私はこんな反応を示すはずだ。
仕返しに、神を無視するのだ。
手で目を覆えば、大人から隠れていられると思う小さな子どものように、人生から神を締め出そうとする。
神が姿を現さないというなら、どうしてこちらが神を認めなければならないのか、という話だ。
ヨブ記には、神に失望するときの反応が、このほかに二つ記されている。
一つは、ヨブの友人たちが見せた反応だ。
神に対するヨブの失望感は、彼らの神学と相容れないものだった。
そこには、自分の正しさを主張する人の肩をもつのか、それとも自分たちが知る正しい神を支持するのか、という明確な選択があった。
友人たちはヨブに、感情を抑えろと言った。
「われわれは、神が不正な方でないことを事実として知っている。
だからそんなことを考えるな!
そんな無礼なことを言うなんて、恥知らずめ!」と。
二つめはヨブの、とりとめのない反応だ。
それは、友人たちの理詰めの冷たい考えとは全く噛み合わない。
「なぜ、あなたは私を母の胎から出されたのですか。」
ヨブは神に問いかける。
「私が息絶えていたなら、だれの目にも留まらなかったでしょう」。
窓ガラスに何度もぶつかる鳥のように、ヨブは無駄と知りながらも抗議する。
さて、ヨブ記はこの二つの反応のどちらを支持しているのだろうか。
両者ともいくらかの是正を必要とし、さんざん激しい口論が繰り広げられた後、神は、敬虔ぶった友人たちに対して、悔い改めてヨブのところへ行き、自分たちの信仰のために祈ってもらうようにとお命じになる。
ヨブ記の伝える一つのメッセージは大胆にも、人は神に何でも言える、ということだ。
深い悲しみ、怒り、疑い、苦々しい思い、裏切り、失望感を神にぶつけてみよ。
神はそのすべてを受けとめてくださるのだ、と。
聖書に登場する霊的巨人たちは、神と争ったことも指摘されている。
彼らは神を締め出すのでなく、ヤコブのように、足を引きずりながら立ち去るほうを選んだ。
この点で、聖書は現代心理学を先取りしている。
人は自分の気持ちを本当は否定したり消したりすることができないのだから、感情を表現したほうがよい、と。
神は、人間のどんな反応にも応じることができるが、たった一つだけ我慢できないものがある。
本能に従った反応、つまり神を無視したり、あたかも存在しないかのようにしたりすることだ。
そういう反応をヨブは示さなかった。
God Bless You!!
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