2023年10月29日(日)
『だれかがいる』
〔10月28日の続き〕
入院後の父にはめったに会えなかった。
子どもが病棟に入ることは許されていなかったし、私は幼くて、中に入れたとしても、そのときの記憶をとどめておくことはできなかっただろう。
母がそのしわくちゃの写真のことを話してくれたとき、私に不思議な反応が芽生えた。
一度も会ったことのない人が、私のことを気にかけていてくれたと思うのは、ある意味で奇妙な感じだった。
父は人生最後の何か月間、目覚めているときは家族三人の写真、私の家族の姿を見つめて過ごしていた。
視界にはほかに何も入らなかった。
父は一日中何をしていたのだろう。
私たちのために祈ってくれたのだろうか。
もちろん、祈ってくれていただろう。
私たちを愛していただろうか。
愛してくれていたに違いない。
だが、からだの麻痺した人間にどうやって愛が表現できるだろう。
子どもたちの入室も禁じられていたのに。
あのしわくちゃの写真のことを折に触れて考えてきた。
それは、私の父であった人、今の私より十歳若くして亡くなった見知らぬ人と私とを結びつける、数少ない絆の一つなのだ。
何の記憶もなく、触れたこともない人が、来る日も来る日も私のことを思い、全身全霊で愛してくれた。
神秘的なかたちで、父は今も別の次元でそうしてくれているのかもしれない。
始まったばかりのところで残酷に終わってしまった関係を、初めの時のように新たにする時が訪れるのかもしれない。
この話に触れたのは、母からあの写真を見せられたときに感じた気持ちが、バイブル・カレッジの寮の部屋で初めて愛の神の存在を信じたときに感じたものと同じであったからだ。
「だれかがいる」ことを悟った。
この星で繰り広げられている人生を、だれかが見守っている。
そして、私を愛してくれるだれかが存在する。
私は、驚くほどの力強い希望に満たされた。
これまでにない圧倒的な感覚だった。
だからこそ、この御方に人生を賭ける価値があると思ったのだ。
God Bless You!!
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