2023年10月27日(金)
『逆転した役割』
〔10月26日の続き〕
どうしたことか、良きサマリア人のたとえについて語り出した。
バイブル・カレッジに通う私たちは、あのサマリア人が、道端に倒れている血まみれのユダヤ人に感じたのと同じ気持ちを、サウス・カロライナ大学の学生たちにもたなければならなかった。
「でも、ぼくにそういう気持ちはありません」と私は言った。
「彼らに対して何の感情もありません」と。
そして、あのことが起こった。
祈りながら、あわれみの対象とすべき人たちにほとんど関心をもっていないと述べていたときに、良きサマリア人の話が新たな光の中に見えたのだ。
話しているときに、その場面が心に浮かんだ。
ローブを着、ターバンを頭に巻いた古めかしい身なりのサマリア人が、泥で汚れた血まみれの人影に身を屈めている。
ところが突然、頭の中のスクリーンで、二人の姿が入れ替わった。
親切なサマリア人の顔がイエスの顔になっていた。
追いはぎに遭った哀れなユダヤ人も別の顔になった。
なんとそれは私の顔だった。
すぐに、イエスが手を伸ばし、湿らせた布で私の傷口を拭い、流れる血を止めようとするのが見えた。
イエスが身を屈めると、傷を負った強盗被害者の私は目を開き、口をすぼめた。
そしてイエスの顔に唾を吐きかけるのを、スローモーションのように見た。
幻も、聖書のたとえ話も、イエスのことさえも信じていなかった私が、それを見たのである。
私は唖然とし、祈るのをやめて立ち上がり、部屋を出た。
その夜、そのときのことを考え続けた。
厳密にいえば、これは幻ではなかった。
むしろ、道徳的な要素が絡んだ、空想のたとえ話と言ったほうがよいだろう。
それでもなぜか無視できなかった。
どういう意味だったのか。
本当のことか。
確信まではいかなかったが、うぬぼれが粉砕されたことはわかった。
キャンパスで、私はいつも自分の標榜する不可知論に安住していた。
だが、もうそれは許されなかった。
そのときまでに自分を新しい目で見るようにはなっていた。
自分に自信をもち、人をあざわらう懐疑論に身を置きながら、おそらくだれよりも助けを必要としていたのだろう。
その夜、婚約者に短い手紙を書いた。
慎重にこう綴った。
「二、三日してから話したいが、もしかすると、生まれて初めて本当の宗教的経験をしたのかもしれない。」
God Bless You!!
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