2023年10月19日(木)
『良きものであり、悪しきものであり、贖われるもの』
執筆について講義していたとき、突然、予想外の質問が出た。
「先生は痛みについて三冊の本を著しています。
結論として、何がわかったのでしょうか。」
本能に促されたように、私はこの簡単な公式で答えた。
「痛みは良きものであり、悪しきものであり、贖われ得るものだ。」
後に、そのときのことを振り返り、この三部構成の考えは、痛みばかりでなく人生におけるほとんどすべてのことについて私が学んだことを要約していると思った。
第一に、痛みだ。
私はハンセン病専門医ポール・ブランド博士と一緒に仕事をするなかで、絶妙に調整された痛みの警告を取り去ってしまうと、人の身体は駄目になることを教えられた。
それこそがハンセン病の問題なのだ。
しかし痛みは悪いものでもある。
あるいは「堕落によるもの」だ。
妻はホスピスで働いているので、もはや有用な目的をもたない痛みがもたらす破壊的な苦しみを日々目の当たりにしてきた。
死を前にした患者にとって、痛みの警告は宇宙のサディストの嘲りかとも思える。
それでも、痛みは贖われ得る。
恒久的な苦しみを抱えながら生きるジョニー・エリクソン・タダのような人々ばかりでなく、死期の迫ったハンセン病患者たちは、人生の提供する最悪のものから、大いなる善が生まれることを、私に教えてくれた。
痛みに関するこの三部構成の考えは、私が人生を見るためのレンズとして用いてきたが、そのときには多様なかたちで姿を現してくる。
ところが、ほとんどの現代人にとって、贖いという概念はかび臭い言葉になっているようだ。
私たちは善の面か悪の面かのいずれかにおいて誤っているのである。
マルクス主義の痕跡をとどめる人、環境問題の専門家、クリスチャン・サイエンスの人、リベラルな民主党員、健康と富を信奉する神学者たちは、創造が善であったことをほめそやす。
一方、ネオコン(新保守主義者)、カルヴァン主義者、フェミニスト、国連の平和維持要員、人権派弁護士、新聞の記者たちは、人間が堕落した暗い現実を毎日のように思い起こしている。
私はこの領域のどこかに落ち着くよりも、このサイクルを完成させ、世界を贖いという三つめのレンズを通して何とか見ようともがいている。
私にとってローマ人への手紙八章が、聖書の中で最も現実的な希望のある箇所だ。
この章は、創造が良きものであったこと、そしてそれが堕落したことも明言している。
けれども、どんな「もの」が現れても———パウロにとって、それは何重もの困難を意味していた———すべては最終的に私たちのためになり、贖われ得る、と力強く言い切っている。
God Bless You!!
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