2023年10月18日(水)
『変えられた痛み』
パウロはローマ人への手紙の中で、「神を愛する人たち……のためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています」と、はっきりと主張している。
この言葉はときに捻じ曲げられ、「神を愛する人々には、良いことだけが起きる」と言うために使われる。
けれども、他の章からも明らかなように、パウロが言おうとしていたのは、それとは正反対のことだ。
神は、過酷な状況で働いてくださるというより、過酷な状況にあった「パウロのうちに」働いておられる、と言うほうが正確だろう。
神は、こうした良い結果が生まれるために、人生に苦しみをもたらすのだろうか。
ヨブ記の最後に確立されたパターンを思い起こそう。
苦しみの原因に関する疑問は、神のご支配の中にある。
それゆえ、その答えを理解しようとしても、それは不可能である。
「葬式のときに何人かの親戚がキリストを受け入れた。
神はこのことのために、その人を天に連れて行かれたのだ」などと考える権利は私たちにはない。
むしろどう応えるかが私たちの課題だ。
パウロと他の新約聖書の記者たちは、信頼をもって応えるときに、神は必ず私たちのうちに働いて良きことをもたらしてくださると述べている。
ヨブ自身が予知するかのようにこう言った。
「神は苦しむ人をその苦しみの中で助け出し、抑圧の中で彼らの耳を開かれる」。
生産的な苦しみという概念は、痛みの経験に新たな次元をもたらす。
アスリートや妊婦が証明しているように、人は目的がはっきりしている苦しみには耐えることができる。
聖書によると、苦しみに対するクリスチャンの正しい反応は、入院患者にも同様の希望を与えるものだ。
神に頼り、聖霊が私たちを神のかたちに造ってくださると信頼するなら、私たちの内側に真の希望が形づくられる。
「この希望は失望に終わることがありません」。
私たちは苦しみゆえに、文字どおりより良い人間になれるのだ。
苦痛は、そのときどれほど無意味なものに思われても、変わり得るのだ。
痛むとき神はどこにおられるのか。
神は私たちのうちにおられる。
痛みをもたらすものの中におられるのではない。
そして、悪いものを良きものと変えるよう導いてくださるのだ。
神は悪からも善をもたらすことがおできになる。
けれども、神は善を生み出したいと願いながら悪をもたらすなどということはないのだ。
God Bless You!!
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