2023年10月17日(火)
『耳障りなシンフォニー』
ほとんどの人が、神とは異なる秤を使っている。
私たちは命に最大の価値を置いているので、殺人を最も重大な罪と考える。
しかし、明らかに神は異なる観点をもっておられる。
確かに人間の命を、それは「神聖だ」と宣言するほど価値あるものとしておられる。
そのことは、人間でなく神おひとりに、命を奪う権利があることを意味している。
しかし、たとえばノアの時代に、神はためらわずにその権利を行使された。
旧約聖書の中には、神は悪の蔓延を防ぐため、人間の命を何度も奪われたことが記されている。
同じように、多くの聖書のみことばが、神の子どもたちの苦痛以上に、神にとって忌むべきものがあることを示している。
神ご自身すら苦しみを免れなかった。
人となり、十字架で息絶える神となった恐ろしい苦痛を考えてみればよい。
それは、神にあわれみが欠けていることを示しているのだろうか。
それとも神には、最も忠実な弟子たちが苦しみのない人生を送ることよりも重要なものがあることを証明しているのだろうか。
聖書は、私たちが痛みの問題について抱く疑問を常に変化させる。
「なぜ?」という後ろ向きの問いに答えることはめったになく、答えるにしてもわかりにくい答え方をする。
むしろ「どんな目的のために」という前向きな疑問を掲げている。
私たちは単に己の願望を満たし、人生、自由、幸福を追求するために地上に置かれているのではない。
一生涯を神と過ごす準備をするために、少しでも神に近づくように変わるために、ここにいる。
そして、そのプロセスは創造物の神秘的なパターンによって進められるかもしれない。
痛みという背景に抗して、ときに喜びが生まれ、悪が善に変えられ、苦しみが何か価値のあるものを生み出すというように。
神は私たちの苦しみを通して語りかけておられるだろうか。
苦痛の中の特定のもの、苦しみの中の特定の症例の中に神のメッセージを見いだそうとして、自らをひどく傷つけることは、危険であり、聖書的とも言えないかもしれない。
神のメッセージは、私たちは他の人と同じように、定まった法則のある世界に生きている、というだけのことかもしれない。
けれども、もっと大きな視点で歴史全体から見るなら、神は苦しみを通して私たちに語りかけておられることがわかる。
そう、それが苦しみであっても、である。
神の作られるシンフォニーには、短調、不協和音、退屈なフーガの楽節が入っている。
しかし最初の数楽章を指揮者に従い、私たちは、新たな力をもって、いつの日か高らかに喜び歌うことになるのである。
God Bless You!!
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