2023年10月16日(月)
『贈り主を捜すこと』
表面上、ヨブ記の中心は苦しみの問題だ。
しかし表面下では、別のことが問題となっている。
人間の自由という教義だ。
ヨブは、神が究極的には自由意思に基づく愛に関心をもっておられることを明らかにするために、理不尽な苦しみに耐える必要があった。
サタンと神の戦いは決して平凡なものではなかった。
ヨブが神を愛しているのは、ただ「彼の周り……に、垣を巡らされた」からだというサタンの糾弾は、神のご性質への攻撃だった。
それは神ご自身だけでは愛するに値しないということをにおわせている。
ヨブのような忠実な人たちが神に従うのは、そうするように「賄賂を受け取っている」からだというのである。
信仰の支えとなるものがことごとく取り去られたときのヨブの応えが、サタンの挑戦の正しさもしくは間違いを証明するというのだ。
人間の自由というこの問題は、だれもが自分にふさわしいものを本当に得るような世界を想像すると理解しやすいかもしれない。
そんな世界なら、正しく首尾一貫しており、だれもが神の期待しておられることを明確に知っているだろう。
公平さが支配していることだろう。
ところが、そのように整った世界にも、一つ大きな問題がある。
神はそのような世界を地上に実現させたいと思っておられないということだ。
神は私たちから愛を受けたいと願っておられる。
自ら進んで愛する愛を求めておられる。
そして私たちは、神がそうした愛に特別な価値を置いておられることを過小評価してはならない。
自発的な愛はすこぶる重要なのであり、神はいっとき地球が宇宙の中で邪悪な癌となることを許された。
この世界が完璧に公平な固定したきまりに従って動くのであったら、真の自由などどこにもないだろう。
そして、私たちは目の前の利益を得ようとして行動するだろうし、利己的な動機が、あらゆる善良な行為を汚してしまうことだろう。
それとは対照的に、聖書に描かれているクリスチャンの美徳は、私たちが神に従わないという誘惑や衝動に突き動かされることがあっても、神と神の道を選ぶときに成長するのだ。
神は私たちに自発的に愛してもらいたがっている。
たとえその選択に痛みが含まれていても、である。
私たちは気分の良さや報酬との関係ではなく、「神」の関係で生きてゆくのだから。
神は、たとえご自分を否認するありったけの理由があったとしても、ヨブがそうであったように、私たちが忠実であり続けることを願っておられる。
ヨブは、歴史上、一見類を見ないほどの神の不正義を経験したときにも、神の正義にしがみついた。
贈り物を理由に、それを与えてくださる御方を捜し求めたのではなかった。
すべての贈り物が取り去られた後でも、贈り主たる神を捜し求めたのだ。
God Bless You!!
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