2023年10月12日(木)
『レスリングの試合』
ゲッセマネの園で起きた取っ組み合いについて語ったことがある。
イエスが神のご意思と格闘し、ほかに道がないため、最後の手段としてそれを受け入れたにすぎなかった、と述べた。
後に神が異邦人にご自身のメッセージを伝えるのに、最も意外な人物(悪名高い人権侵害者タルソのサウロ)をお選びになったとき、ある教会指導者はこう言って異議を唱えた。
「私は多くの人たちから、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました」。
神はこの申し立てを遮って言われた。
「行きなさい。あの人は……わたしの選びの器です」。
数年後、その人は名をパウロと改め、肉体の病を取り除いてくださいと繰り返し祈って神に交渉していた。
なぜ宇宙を治める最強の御方である神が、人間と関わるのに、交渉———露骨な言い方をすると値切ること———のようなスタイルを取ろうとされるのか。
私たちの霊の訓練方法の一つとして、そうする必要がおありなのだろうか。
あるいは神は、いわば世界を見る窓として、あるいは介入の引き金に手をかける警報器として、私たちの激高に頼っておられたりするのだろうか。
神にモーセを召し出させたのは、イスラエルの民の叫びだった。
祈っている私たちに神は何を望んでおられるのか。
最も近しい人のことを考えるのが、いちばんわかりやすい。
兄のことを考えてみる。
幼いころからの私の恥や痛みの秘密は兄だけが知っている。
妻のことを考えてみる。
彼女はこの世でだれよりも私のことをよく知っていて、レストランで注文するものから、どの州に住むかまで、私は何でも妻に相談する。
あるいは私の編集者。
私が一冊の本を生み出すときにたどる不安の段階を、一段一段手を取って上らせてくれるのは彼だ。
これらの親しいパートナーたちと、私はある意味で神に交渉する場面と似たようなことをしている。
提案したり、引き下がったり、彼らの意見を考慮したり、妥協点に行き着いたり、変えられたりする。
アブラハムのように、最初は恐れおののきをもって神に近づく。
しかし、結局神が望んでおられるのは、私が卑屈にふるまうことをやめて議論を開始することなのだ。
不正と不公平に満ちた世界の現状を、あえて粛々と受け入れることはない。
私は、神ご自身のなさった約束や、神ご自身の性格の説明を神に求めなければならない。
God Bless You!!
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