2023年10月11日(水)
『未知で予測不可能なもの』
祈りは、イエスにとっても決して簡単なことではなかったようだ。
私に手紙をくれた人たちのように、イエスも聞かれないために心が受ける悲痛を知っておられる。
何といっても彼の最も長い祈りは、「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください」という一致を求める思いが中心にある。
教会史をほんの少しかじっただけでも、その祈りがどれほど長く聞かれずにいるかがわかるというものだ。
イエスはまた別の夜に、自らの使命を委ねる十二弟子を選ぶ際、導きを求めて祈った。
しかし私は福音書を読みながら、このあまり信用のできない十二人が祈りの答えになっていることに驚く。
野心的な雷の子ヨハネや、イエスが「サタン」と叱責することになる性急なシモン・ペテロばかりか、弟子の一人は「イスカリオテのユダで、このユダが裏切る者となった」と、ルカはあてつけがましく記している。
イエスは後にこの十二人について「いつまであなたがたに我慢しなければならないのか」と憤慨しつつ溜息された。
イエスはあの山で父なる神から受けた導きを、一瞬でも疑問に思われなかったのだろうか。
神学者レイ・アンダーソンは挑発的な著書『ユダの福音書』の中で、イエスがユダを十二弟子の一人に選んだことについて考察している。
イエスは、祈ったあの夜、ユダの運命を見通しておられたのだろうか。
最後の晩餐で自分を裏切るためにユダがテーブルを離れたとき、父なる神にあの祈りを思い起こさせられただろうか。
アンダーソンはユダの事件から、祈りについて重要な原則を引き出している。
「祈りは、人生における未知で予測不可能な要素を取り除く手段でなく、むしろ未知で予測不可能なものを、私たちの人生における神の恵みの完成に含める行為である。」
弟子を選ぶために祈ったイエスご自身の祈りは、なるほど「未知で予測不可能な要素」を取り除きはしなかった。
十二人はたびたび、そのつまらない関心と不十分な信仰でイエスを驚かせたり失望させたりした。
最後に最も彼らを必要としたとき、十二人全員がイエスを裏切った。
しかし結局、十二人のうち十一人がゆっくりとではあるが、確実な変容を遂げ、イエスの最初の祈りに対し、長い期間を経た後に応えた。
ヨハネは「愛の使徒」へと柔和に変化した。
シモン・ペテロは、後にキリストのように苦しみを受けることで、いかに「その足跡に従う」かを示した。
例外的なユダはイエスを裏切ったが、まさにその行為が十字架とこの世の救済につながった。
祈りは奇妙で神秘的な仕方で、未知で予測不可能なものを神の恵みの完成に組み入れる。
God Bless You!!
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