2023年10月10日(火)
『祈りは重要か』
イエスの祈りを調べてみると、その実例が祈りに関する、ある重要な問いに対する答えであることがわかる。
祈りは重要か、という問いだ。
疑いが忍び込み、ひとりごとを聖なるかたちにしたものが祈りなのだろうかと思うとき、言葉を発してこの宇宙を生み出し、存在するすべてのものを支えている神の御子すら、祈らずにいられなかったことを想起する。
イエスは祈りが大切であるように祈ったし、祈りにささげる一瞬一瞬が、人々の世話にささげる時間と同じくらい重要であるようにも祈られた。
私が祈りを探究していると知った医者の友人は、三つの大きな仮定から始めるべきだと言った。
? 神は存在する。
? 神は私たちの祈りを聞くことができる。
? 神は私たちの祈りを気にかけている。
彼は言った。
「これら三つの仮定はみな、正しいと証明することも、誤りであると証明することも不可能だ。
信じるか信じないかのいずれかだ。」
なるほど、彼の言うとおりだ。
しかし私にとってイエスという実例は、信じるほうを選ぶ強力な証拠だ。
過小評価して祈りは重要でないと結論すると、イエスは惑わされていたと考えることになる。
イエスは命綱として祈りにしがみつかれた。
祈りは父なる神のみこころを知り、実行するための導きと力を与えたからだ。
それでも、この世の環境に激しく苛立ったり(「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか」)、誘惑と戦ったり(「あなたの神である主を試みてはならない」)、疑ったりすることもあった(「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」)
懐疑主義者たちは祈りの実用性に疑問を投げかける。
神が最善を知っているというなら、祈って何になるのか。
そのような質問に対して私に出せる最良の答えは、イエスというお手本だ。
イエスはだれよりも父なる神の知恵を知っていて、しかも天を願い事であふれさせる必要を強く感じておられた。
イエスは祈りの有効性について形而上的な証明をなさらなかった。
だが、イエスが祈ったというまさにその事実が、祈りの価値を確立させている。
「求めなさい。そうすれば受けます」と率直に語られた。
それは、嘆願を祈りの「原始的な」かたちと考える人々への戒めだ。
弟子たちが苦しむ少年を癒そうとして失敗したとき、イエスはその理由を簡潔に、祈りが足りないからだと言われた。
God Bless You!!
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