2023年1月24日(火)

2023年1月24日(火)


『やはり正義の神』

多くのクリスチャンの間でも、未来に受ける報いを強調するのが時代遅れになってしまったことは明らかだ。

私の牧師だったビル・レスリーはよくこんなふうに言っていた。
「教会がさらに裕福になり成功するようになると、会衆の好む賛美歌は『この世は私の家ではない、私はただの寄留者だ』から、『これが私の父の家』へと変化する。」

少なくとも米国では、クリスチャンは快適な暮らしを営めるようになったので、もはやイエスが八つの幸いで説いた卑しい状態に自らを重ねることができない。

それで八つの幸いは私たちの耳に、これほど異様に響くのかもしれない。

しかし、C・S・ルイスが思い起こさせてくれるように、私たちは未来に受ける報いの価値を割り引くような真似はすまい。
米国の奴隷たちが作った歌に耳を傾けさえすれば、未来の報いを信じることでどんな慰めを得られるのか、わかるというものだ。

「静かに揺れよ、麗しの戦車、私を故郷へ連れ帰る。」
「天国に着いたなら、長衣をはおって御国の中で叫ぶでしょう。」
「もうすぐ自由、もうすぐ自由、主が私たちを家に呼んでくださる時に。」

奴隸たちは、この世に望みはなかったが、来たるべき世界に望みをつないでいた。

私はもはや、八つの幸いで言われた永遠の報いが「絵に描いた餅」であると非難したりはしない。

未来の報いに希望をもつとどんな良いことがあるだろう。
中東で人質にとられた経験をもつテリー・ウェイトは、ベイルートの不潔なアパートのドアに鎖でつながれて一生を過ごすのではなく、ただもうしばらく耐えれば、家族や友人、慈悲と愛、音楽に食べ物、良い書物などのそろった世界が待っていると信じた。

そこにどんな良いことがあったのか。
血の滲むような労働や、鞭やリンチに使うロープを持つ主人のいる世界に神は満足しておられない。

こう信じることは、奴隸たちにとってどんな意味があったのか。
未来の報いを信じることは、主の長い腕は正義のほうへ向けられていると信じることであり、いつか誇っている者が打倒され、卑しい者が引き上げられ、飢える者が良きもので満ち足りると信じることなのだ。

未来の報いを展望することは、決して私たちがこの世で正義のために戦う必要がないということではない。
神はやはり正義であると信じさせてくれる。

ほかの世界から鳴り響いてくる鐘のように、イエスの報酬の約束は、事態がどのように見えようが、悪に未来はなく、善にだけ未来があると宣言している。

God Bless You!!


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