2022年8月18日(木)

2022年8月18日(木)


『彼はこれを聞いて、非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。』ルカの福音書18章23節


この裕福で若い指導者は、悲しみのあまり無言でイエスの前を去った。
イエスに対して返すことばが一つもなかったのである。

イエスが言われた内容に疑問の余地はなく、その意味についても議論の余地はなかった。
その結果、返すことばもない彼の心に悲しみが湧いてきたのである。

あなたもこのような経験をしたことがないだろうか。
あなたに豊かに備わっている富、たとえば、気質や人から好かれる性格、あるいは心と知性を献げよと、神に求められたことはなかったか。

もしあったなら、あなたもことばを失い悲しんだのではなかったか。
主はあなたを追いかけはしない。
またあなたに嘆願もされない。

しかし問題の核心にふれるたび、主は同じことをあなたに言われる。
「あなたが心からそう願うなら、条件はすでに話したとおりである」と。

「あなたが持っている物をすべて売り払い……」とは、およそ自分を立派に見せる「着物」を一つ残らず脱ぎ去り、それを神に差し出し、単なる一人の人間として素の自分だけを残すということである。

これこそまさに、神の前で、意志という領域で起きる戦いの場所である。

もしかすると、あなたは、イエスはこう願っておられるという自分の判断のほうが、イエスご自身がはっきり言っておられる願いよりも大事だと思ってはいないだろうか。
もしそうであるなら、イエスからの痛烈なおことばを聞いて、悲しみに打ちひしがれるほかはない。

イエスのおことばは確かに厳しい。
しかし、イエスの性質にあずかった者が聞けば、難しいことは何もない。

そういうわけだから、イエス・キリストのおことばを、ただ厳しいというだけで和らげてしまうことのないように、特別に注意しなければならない。

以上述べてきたように、自分が取るに足らない人間であることをひけらかすようであれば、私は貧しいのに、ある意味では富んだ者であり、とうていイエスの弟子になることはできない。

またその逆に、自分がひとかどの人物であると自負する思いがあっても、弟子となることはできない。
自分には誇るべきものは何もなく、貧しい人間であると自覚しながら、それでも欠乏と貧しさを受け入れる用意があるだろうか。

それがないとすると、まさにそれこそが落胆を経験する原因である。
落胆とは、自己愛に幻滅する結果起きるものである。

そして、その自己愛とは、イエスご自身に対する愛というより、イエスに献身する自分に陶酔しているだけのことかもしれない。

God Bless You!!


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