2022年8月10日(水)

2022年8月10日(水)


『ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。』ペテロの手紙第一4章19節


苦しむことをあえて選ぶとしたら何かが間違っている。
しかし、苦しむと分かっていても、神のみこころを選ぶというのは、それとはずいぶん違う。

霊的に健全な聖徒は、あえて苦しみを選びはしない。
イエスと同じように、苦しみか、苦しみではないかに関わりなく、神のみこころを選ぶのである。

聖徒であるなら、他の聖徒が苦しみの訓練を受けている最中に、あえて要らぬおせっかいをしたりはしない。
イエスの心にかなう聖徒は、他の聖徒を、神にとってたくましく、円熟した人々にする。

私たちに益をもたらす人とは、決して私たちに同情してくれる人のことではない。
そのような人々はいつの場合も妨げとなる。
同情によって、人はむしろ軟弱になるからである。

聖徒の心を理解できるのは、救い主に最も近い聖徒以外にはいない。
もし私たちが他の聖徒からの同情を受け入れてしまうと、「やはり、神は私につらくあたっておられるのだ」と反射的に感じるようになる。

それゆえに、自己憐憫の思いは悪魔から来ている、とイエスは言われたのである。

私たちは神の名声に傷をつけてはならない。
神のご人格に泥を塗るのは容易である。
神は決して反論せず、ご自分の正当性を主張されないからである。

イエスでさえ、地上のご生涯を送るにあたり、同情を必要とされた、という考えには警戒しなければならない。
主は人からの同情を拒まれた。
主の最終的なご目的を理解している人はだれもいないことを、よくご存じだったからである。

主は、御父と御使いの同情以外はお受け入れにならなかった。

神による聖徒の「無駄遣い」はことばを失うほどだ。
この世の基準からすれば、最も役立ちそうもないところに、神は聖徒たちを配置されるからである。

「神が私をここに導かれたのは、私が役立つからだ」と私たちは言う。
そうではない。
神は聖徒たちが神の栄光を現す場所に聖徒を置かれるのである。

それがどこなのか、判断するのは私たちではない。

God Bless You!!


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