2022年7月28日(木)

2022年7月28日(木)


『イエスは弟子たちを無理やり舟に乗り込ませ、向こう岸のベッサイダに先に行かせた。」マルコの福音書6章46節


もしイエス・キリストから強い促しを受け、それに従うなら素晴らしい成功が待っている、と私たちは考えやすい。

しかし、私たちが夢見るような成功を収めることが神のみこころである、と決して考えてはならない。
その正反対かもしれないからである。

私たちは、自分が願ったとおりの特定の結末に向かって、神が私たちを導いていてくださる、という考えをどこかで持っている。

しかし、そんなことはない。
願ったとおりの結末に至ったとしても、それが重要なのではなく、たまたまそうなったにすぎない。
私たちが途中経過と呼んでいるものこそ、実は、神が到達目標とみなしておられるものだからである。

私に対する神のみこころを、私はどのように思い描いているだろうか。
神のみこころとは、今この瞬間、私が神とその御力に頼ることである。

たとえ私が、人生の荒波の真っただ中にあっても、冷静沈着のままでいることができるなら、それこそが神のみこころである。

神は、何か特別なゴールに向かって働いておられるわけではない。
神のご目的は途中経過にある。

すなわち、岸が見えなくても、また成功の見込みもなく、目標がどこにあるかわからなくても、波の上を歩いておられるイエスが見えるから大丈夫なのだ、という確信を私が持つことである。

神に栄光をもたらすのは、結果ではなく、途中経過なのである。

神が私たちを訓練されるのは、やがて来る時のためではなく、今の時のためである。
神のみこころは、将来起こる何かのためにではなく、今のこの瞬間のために働く。

神に従ったらどうなるか、ということは私たちにはどうでもよいことである。
後のことを考えていたら、私たちは誤りを犯す。
人は訓練や備えと呼ぶが、神はそれを最終目的とみなしておられるからである。

神が願っておられるのは、混沌とした私の人生の荒波の上を、主なら歩くことができると、今この瞬間、私が理解することである。

私たちが将来のことを到達目標とすると、現在進行中のことに注意が十分いかなくなってしまう。
しかし、従順であることが目標そのものであることに気づくと、私たちに訪れる一瞬一瞬がどれほど尊いものかが分かるのである。

God Bless You!!


a:28 t:1 y:0